平カズオのブリュッセル便り

 第1回 グランプラスからの第一信
 今年2002年から統合ヨーロッパでは統合通貨ユーロが生活の中に登場した。国家主権である自国通貨の廃止は歴史的な実験ともいわれるが、むしろ自国通貨そのものが歴史的には新しかったというべきだろう。そのことを論じる以前に、ヨーロッパの今の国家群の枠組み自体が歴史的には新しいことを知っておくべきだ。
 たとえば、今この原稿を書いているのはドイツ、オランダ、フランスと陸続きで接し、海峡を隔ててイギリスに、と大国にはさまれたベルギーでなのだが、国家として成立したのは1831年(独立)。それ以前にはベルギーという国はなかった。第一ヨーロッパの大国、イタリアの統一が1861年、ドイツが統一国家として成立したのは1871年(ドイツ帝国)なのだから、ベルギーの独立はそれよりも古いことになる。
 むしろ統合通貨ユーロは、近代国民国家成立以前の金貨(金)が国境を越えて流通した時代に戻る、と考えた方がよいのではないか。たとえば南北に長いドイツの中で北のハンブルグの商人は北海沿岸諸国との取引がしやすかっただろうし、南のミュンヘンではオーストリアやイタリアとつながった方が自然だし、昔のドイツではそうだった。それには自国通貨などに縛られては効率が悪い。
 そう考えた時、ヨーロッパの通貨統合、そして統合欧州の構想は、歴史的には自然な成りゆきといえる。
 連載第一回から話を大きく広げすぎた。身近な写真のことに話を限ってみよう。
 私は古くて新しい国、ベルギーの首都ブリュッセルの中心地「グランプラス(市庁舎前大広場)」に用事があって、ほとんど毎日足を運ぶ。広場の回りにはギルド(同業組合)ハウスが建ち並び、ブリュッセルの中心が王権や教権ではなく、商人の広場だったことを思い知らされる。
 そのグランプラスで、広場を描くアーティストの作品を売っている男と、ひょんなことから知り合いになった。というのも、彼は主に結婚式の写真を撮る写真家でもあり、カメラ好きだからだ。
 先日も「やっとズミクロン50ミリF2の最初のモデルを手に入れたよ」という。このライカの標準レンズのピントリングには無限遠でのストッパーがついている。そのストッパーにかかる直前のところでピントリングの回転を止めて、絞りをF8にすれば、スナップではほとんどのところにピントが合ってしまう、というのだ。
 昔の(と断る時代になってしまったのか)MFレンズにはスナップ撮影マークというのがあった。そこにセットしておけば、とっさの撮影でもピント合わせは不要だ。最近のAFレンズでは、スナップだろうが風景だろうが、律儀に合焦動作が行われる。それよりも、ずっとタイムラグが短くて、シャッターチャンスがつかめるよと、彼ならいうような気がする。
 その彼のところに毎日、カメラ好き、写真好きが集まってきて、広場に立ったままおしゃべりを続けている。そうして何百年も前の建物に囲まれて、のんびりとした時間が過ぎていく。で、私は彼らの会合を「グランプラスカメラ倶楽部」と呼んでいる。
 ところで、日本は百数十年前に鎖国をやめ開国し、以来西洋の知識を絶えず取り入れ続けてきた。フランスで発明された写真もその一つだった。
 その写真に限っても、西洋の写真産業は到達目標だった。そしてキャッチアップに成功した今も、日本の写真産業は新しい知識、新しい技術を取り入れ発展し続けている。
 近年はカメラのハイテク化により、設計者もユーザーも取り入れるべき新知識は益々増え、カメラ評論家諸兄は新知識解説業のような印象を受ける。動体予測とは、多分割測光とは、というわけだ。しかしそんなものを知らなくても、基本さえ理解できれば写真は撮れるぞ、と私は思っている。
 知識は取り入れるものだが、それを生かすのは知恵だろう。しかしあまりの新知識の洪水の中で、知恵を生かす余裕もないのが実状のような気がする。
 新しい知識は古びた知恵を解体するところに意味がある。しかし知識ばかりの増大は、今も有効な知恵を、そして自分自身を見失わせるばかりではないか。なによりも知恵は取り入れるものではなく、自分で生み出し身につけるものだからだ。
 明治のはじめ、日本が知識を取り入れたヨーロッパの姿はもうなく、日本がモデルとする国は世界にない。今我々、は我々が生き延びる我々の知恵を身につける時なのだろう。
 話が再び大げさになった。これから、このゆったりと時間が過ぎていくブリュッセルのグランプラスから写真について、カメラについて書いていこうと思う。


第2回
 2002年フォトキナ速報第1信
 2002年フォトキナ速報第2信

弟3回 ライカイズムとキヤノニズム

上が修理前のM3でボディー上部右に凹みが見える。下が修理(軍艦部を交換)後のM3。ライカのマーク、製造番号などに注意。
 数年以上前、「トヨタイズムとフォーディズム」という雑誌記事を読んだ。自動車メーカーのトヨタとフォードの企業としてのあり方を、外国の経済学者が対照的にとらえた言葉だったが、経済は苦手でその具体的な内容はほとんど忘れてしまった。
 今回のタイトルの「ライカイズムとキヤノニズム」は単にそれを真似ただけで、経済学には無縁な一写真家の直感的な、表面的な印象を述べるに過ぎない。
 ヨーロッパにいる間に、ライカカメラ社で修理してもらおうと思い立ち、中部ドイツのソルムスの本社の「カスタマーサービス」を訪ねた。先方はこちらの要望を聞き、見積書を送るからFAXの番号を教えて欲しいといい、2台のM3を受け取った。
 数日後、ブリュッセルのアパートに見積書が送られてきた。ところが黒塗りのM3のファインダーは交換の必要があるが、現在M3のそれはなく、M6jのものを使用するとある。私はコレクターではなく、オリジナルにはこだわらないが、M3のファインダーだけは捨てたくないので、できればファインダーの交換なしで修理をして欲しいとFAXを返した。するとそれはできないとの返事であったので、ではそのM3は修理はせず、片方のクロームタイプの修理のみを依頼した。
 その後、多少のゴタゴタがあり時間がたち、こちらもブリュッセルをいったん離れることになったので、しばらくカメラは預かってもらうことにした。
 そして約4カ月後、再びソルムスに出向き修理品を受け取った。最初にしたことは、もちろん黒塗りM3のファインダーのチェックだ。交換はされていないので、一安心。次に修理済みのクロームタイプのM3を見て、驚いた。
 最近のM6の軍艦部には何も彫り込まれていないから、同じつるつるのものが出てくるかと思ったのだが、なんとオリジナル通りの彫刻がされていた。製造番号はもちろん、旧社名のエルンスト・ライツとあり、その所在地を示すウェッツラー・ジャーマニーとある。昔と違い、コンピューター制御による彫り込みだろうが、これには驚いた。新製品の加工よりも手間がかかっているはずだ。
 修理代金は見積書通りで、約790ユーロ。9万5000円といったところだろう。これを高いと見るかどうか。
 恐らくライカカメラ社では、修理品も工場出荷基準をクリア、つまり精度は新品同様にしているのだろう。私の黒塗りのM3はそれを満たしていないので、最新のM6jのそれと交換するのであれば、技術的な立場からそれは正しい。まぁこの黒塗りのオーバーホールに関しては、また道を探そうと、ソルムスをあとにした。
 ここまでお読みになると、ドイツ・クラフトマンシップがどうのといった、よくあるライカ記事といっしょにされるかもしれない。しかし私にはそう単純にまとめることはできない。
 ライカイズムとキヤノニズム。そのどちらがいいか悪いかをいっているのではない(私はキヤノンEOSkiss海外仕様機の愛用者だ)。いずれも企業であり、目的は利益の追求であり、その方法が違うだけだ。経済のことは専門外であり、一写真家として表面的なこと、現象的なことだけを指摘する。
 ライカカメラ社の前身はエルンスト・ライツだった。逆にキヤノンだけでなく、日本のカメラメーカーの多くが光学やカメラといった呼称を廃止し続けている。これは企業イメージの問題、ひところの流行語でいえばコーポレート・アイデンティティにかかわることだろう。
 もっと下世話にいえば、カメラ会社を名乗ればカメラは飯の種、カメラの名前を捨ててしまえば、ときにはカメラは企業のイメージアップの看板でも許される。
 今回修理されたM3は1961年の製造。40年前のカメラを日本のカメラメーカーに持ち込んだらどういわれるだろうか?。修理(部品)に関してはユーザーは法律で守られているが、同時にメーカーも守られていて、年月の経過を理由に法律をたてに断ることも可能だ。
 この表面的な違いの向こうにあるのは「風土」や「文化」の違いだろう。そして私がいいたいのは特に、とかく進化進歩をわけもなくありがたがるカメラ評論家なる人たちにだが、その風土や文化の違いを意識することなく、どちらかの側の単一の価値観でカメラという商品を論じるのはイカガナモノであろうか、と。


弟4回 Merry Christmas!
        and
     Happy New Year!

 日本ではいつもは落ち着いている先生方も走り出すという師走は、ヨーロッパではクリスマスシーズン。町の中心には大きなクリスマスツリーが立てられ、近くではクリスマス市が開かれる。
 日本のあわただしい年の瀬と違い、25日が近づくにつれ人々の足取りもゆったりとしてくるような気がする。過ぎていくこの年を振り返るかのように。
 24日のクリスマス・イブは各自の家でお祭り騒ぎだが、カフェの従業員も仕事どころではないし、25日は家族ともどもひっそりと家にこもって過ごすのだから、この時期、独り者には辛い。レトルト食品を暖めて一人手酌でシャペンをあおるといった情けないことになる。
 それが過ぎれば休暇をとる人も多く、町は静かで、クリスマスの余韻は残っている。が1月1日の休日が終われば、俄然町は活気づく。商店はバーゲンセール、道路工事も始まる。やがて赤や黄色の溶けたロウソクがこびりついたクリスマスツリーが道端に捨てられ、現実の新年が始まったことを知らされる。
 日本の年の瀬、新年と逆のようだ。とにかく忙しく過ごして、ほっとする大晦日、そして静かな正月。それもまたなつかしい。
 いずれにせよ、充実した一年であったかどうかを振り返り、来るべき一年が充実したものでありたいと望むのは、人皆同じだろう。
 私は、デジタルデジタルとかまびすしい時代だから、銀塩白黒写真にうちこみたいと思う。とはいってもデジタル・イメージに背を向けているのではない。添付のグランプラスの映像はデジタルカメラで撮ったものだ。
 今の私は銀塩白黒写真とデジタル・イメージは違うものとの認識で、デジタル・イメージの流れは世間に任せ、銀塩白黒写真はほかでもない私のカンを研ぎ澄ませ、私の手業にいっそうの磨きをかけ、一枚一枚プリントしていきたいと思う。
 どうぞよいお年を!


弟4回 ネガこそがオリジナル

 このところ「写真とは何か?」をずっと考え続けている。というのもほかでもない、デジタルカメラが急速に一般の人たちに浸透し始めているのは確実であり、いわゆるフィルムカメラにとって代わる勢いだからだ。
 ここベルギーの首都ブリュッセルの観光名所グランプラスでも、腕を伸ばして手にしたデジタルカメラのボディーのスクリーンを見ながら画面をチェックし撮影している人たちを多く見かける。その数の増えかたを見ていると、いつかはフィルムカメラとその数は逆転し、コンパクトカメラはほとんどデジタル化されるような気がしてくる。
 と書けば、そんなことを憂えるのはナンセンスだ、写真もまた技術的な発明であり、新しい技術にとって代えられるのは当然のことだ、といわれるかもしれない。
 そういわれるのであれば、言い直そう。
 私が考え続けているのは「写真とは何であったのか?」であり、もし写真が生き残るであれば「その写真とは何であるのか?」なのだ。
 この問いは写真の独自性、本質を問うのであって、その問いかけは「銀塩vsデジタル」「銀塩・デジタル共存」といった表面的な議論とは全然次元を異にする。というのも、私の考えでは写真とデジタル・イメージは本質において違うものだからだ。
 それは前々から漠然と考えていたことなのだが、「画像データが未修正のオリジナルファイルであることを確認できる」デジタル一眼レフカメラキヤノンEOS−D1sが登場したときに、それは確信となった。メーカーの説明ではこの機能は「各種医療機関や、物損状況を証拠として取り扱う保険業界、工事の進捗を確かめる建築業界等幅広い分野において威力を発揮します」とあり、そんなことは銀塩カメラではうたわれなかったことなのだから、これはデジタルカメラと銀塩カメラの違いの本質に関わることなのではないか。
 というのも、そのことはフランスの記号学者ロラン・バルトが「明るい部屋」の中で以下のように述べていることに通じるとも思ったからだ。
 「ある科学的事由(銀ハロゲン化合物の感光性の発見)によって、さまざまな明暗をもつ対象から発した光を直接とらえ固定することが可能になり、そのときはじめて『写真』のノエマ《それはかつてあった》が存在しえたからである。写真とは文字通り指向対象から発出したものである」。
この点は発明された写真術=ダゲレオタイプから一貫して変わっていない。最新のフィルムのネガ像もまた、感光材料に形成された潜像を現像で可視像に還元して得られる。デジタルカメラの場合、撮像素子で被写体像を電気信号に「変換」し、それをデジタルデータに「変換」し、記憶装置に蓄えられる。私にとってその「還元」と「変換」の違いは限りなく大きい。カラーの場合も、銀塩画像を色素画像に「変換」するので、その直接性は薄れる。
 といっても、「銀塩とデジタル」のどちらが優位といっているのではない。本質において違うものを比べても意味はない。
 ただ発明された写真が後に担った役割をデジタルカメラが受け継いでいくためには、写真では不要であった画像データのオリジナル性を確認するための機能も必要になるのだろう。そうして(銀塩)写真は役割を失い純粋なものになっていくように思う。
 そう考えた時、銀塩白黒写真のネガ像こそ世界でただ一つのものであり、まさにオリジナルなものであり、この上もなく愛しいものに感じられる。
 ここに掲載した約30年前に撮影したネガには私の恩人が写っている。その人から発した光がこの画像を直接形成したのだと思うと、心が締め付けられような気がしてくる。
2003年7月ブリュッセルにて

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訃 報
 平カズオ 6月4日(2006年)脳出血で死去、57歳。
 1997年から約10年間ブリュッセルに滞在し、同国でも個展を開くなど活躍されていた。メールでいろんな情報をこのwebに寄せて頂き、また毎年日本でも個展を開くなど一時帰国の際にはお目にかかったりもして向こうの活動状況などを聞いていた。2005年に帰国されたようだがここ2,3年はお目にかかっていなかった。氏のライカ使いは有名でレンズの癖などを熱っぽく語っておられたことを思い出す。
 氏は早くからアマチュア無線やコンピュータなどハード面にも明るく、パソコン通信時代には「写真人電脳網」というフォーラムを主催し多くの写真人とディベートを楽しんでいた。ブリュッセルに行かれる前年に「写真人電脳網」はこのwebの前身コスモネットが引き継ぎ約4年間運用した。1980年代半ば、当時はようやくパソコン通信が実用の域に達した時代、「アスキーネット」というメジャーなネットフォーラムがあり、氏はその中の「写真フォーラム」を担当されていた。製造中止になったフィルムのことで問い合わせをした際に大変詳しい情報を送ってくださったのが氏との出会いのきっかけ。氏のススメでAJCCに加入し、その例会で初めてお目にかかった。あっという間の20数年だったような気がする。

 ユニークな写真人を失ったことは誠に残念でなりません。ここに心からの冥福をお祈りいたします。T.Kubo 2006年6月