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中学から東京に引揚げたが
1949(昭和24年)その年の夏休みに秋田を訪ねた。
帰りの車中で、前の座席の乗客が機関車が転覆したことを教えてくれた。
松川事件


 少年時代の経験は、生涯影響すると言うが正にその通りである。
 秋田に疎開した四年間は、自分の意思で自由に思い通りに行動した。
未知の世界と不便な環境ではあったが幸運であった。未知ゆえに好奇心に満ち、不便ゆえに知能が働いたといえる。不便は人を利口に、便利はその逆であることがよくわかる。また責任を問われるから「自由ほど厳しい制約はない」と痛感する。

 これまで出版物や放送で少年時代の感性や思考性の概略を断片的に述べてきた。
そして一九九八年インターネットで『郷愁の秋田』を公開したが、そこでも当時の生活に現代の視点を交えながら回想した。かように少年時代の体験は生涯影響する。さらに書くほどに懐かしく、また充実させたいと考えた。
 
 一九九九年二月、東京近在の有志で当時の同窓会があった。この機会に当時の様子を伺いたいことと写真を探すべく「同窓会誌」を発行した。
 その一節に役場の前で学級写真を撮った記憶。さらにこんなくだりを書いた。
 「だれかに呼ばれて廊下の方を振り向くと、色白の女生徒が微笑みながらお母さんとボクを見ていた。とても可愛かった。ボクの持っている本を、どこでどのようにして買えるのか。優しいお母さんと一緒に聞きにきたのは、たしか高橋玲子嬢ではなかったでしょうか」
 小学生時代の同窓生は幻影ごとくの心象しかない。だから知人というにもほど遠い存在であった。たぶん相手もそうだろう。だから期待薄ではあったが、計らずも高橋玲子さん(現姓・武田)からファックスでお便りがあった。しかも同窓会誌が到着した翌朝であった。
 本の件について玲子さんは忘れていたが、同窓会誌をたいへん喜んでくださり、さらに私が探していた、長信田小学校時代の学級写真が手元にあるのでお役立てくださいとあった。これほど迅速に希望が適うとは予想だにしなかった。

 こうして五十数年ぶりに、疎開した小学生時代の自分に対面することができた。
 写真を送ってくださるのに、折れないようにご自身の句集をパッキング代わりにするので、興味がなかったら捨ててくださいと言う。謙遜でしょうがお人柄の一端をみることができた。
 玲子さんが文芸に秀でていることは俳句で証明されている。たまたま編纂中の出版物に相応しい句があり、さらに新作をお願いして掲載することになった。
 最初のお便りをいただいて一ヶ月ほどの期間に、しかも五十数年間断絶した小学生時代の同窓生と仕事ができたことは、思いもよらぬ快挙であった。
 同窓会誌の編纂中、ときおり「お手伝いをさせてください」と言われるので、編集の仕事に興味がおありなのかと思った。同窓会誌に俳句を掲載するにあたり、また当時の年表や写真と氏名の照合などでお世話になった。こうして電話・ファックス・手紙などで交信していると、当然私的な話題も含まれてくる。
 「北海道へくることはありませんか」と言う問いに、五十年の隔たりを保ちながらお話するほうが意義深いと言った。こうした状況は二度とない。会ってしまったら五十年の隔たりが消滅してしまう。
 あるとき「祖父の声が入った録音テープがあるのですが、昔のオープンテープなので聞くことができないのです。カセットテープにコピーする方法はないでしょうか」と相談された。
 父親が戦死し、祖父に甘えて育てられたという玲子さんの願望は、なんとしても適えなければならない。けれども電話の声を聞きながら一抹の不安がよぎる。できることを即答して喜ばせてあげたい。けれども不可能なら落胆も大きい。
 数十年経たテープの保存状態が不安だし、私のオープンテープレコーダーは十数年使っていないので精度が心配であった。けれどもテープ速度を調節できるからなんとかなると思った。もし自分でできなければ専門家に依頼すればいい。そんなことを考えながら、とにかく送るように返答した。
 案の定磁気が転写していたが、一時間分くらいは正常であった。秋田弁が懐かしかった。玲子さんは一刻も早く祖父の声を聞きたいであろう。一部であるが電話で流した。彼女は涙ぐんでいた。長信田小学校時代の写真のお礼を、なんらかの形でしなければと考えていたからよかった。恩返しができたと思った。
 先日母に「お前の手紙も俳句もトショッタ(年寄る)」と叱咤されましたとあり、暑中見舞いに、信男さんへのメッセージとも思えると言って回送してくれた。
 ご高齢とは思えない端正な美しい文字であった。

 同窓会談話誌、自分乍ら童心に返って読ませて頂きました。
 本来は目が疲れて読めないのに、一気に読み通しました。
 「持つものは友なり」と羨しくもありました。
 還暦は老いにして老いにあらずです。
 増々の発展お祈りします。
 信男さん!覚えのあるやうな気がします。よろしくネ
 
 五十数年を超越して玲子さんと母上の存在感が一気に迫る。
 あの長信田小学校時代、教室の入り口でお母さんと二人で微笑みながらボクを見ていた光景が鮮明になる。そのお二人が目前に現われたのだ。なんたることだ、感傷的で切ない。「同窓会誌」がこうした局面に展開するとは、思いもよらなかった。

 さらに金本節子先生(現姓・高貝)をはじめ、数人の同窓生のお便りでより満たされた。また先生の写真を拝見したとき、なぜか「青い山脈」が脳裏を過った。
 同窓生の宇野幸子さん(現姓・佐々木)は
 「三つ編みでセーラー服の節子先生が眩しいほど素敵で憧れでした」と回想している。
 執筆にあたり秋田を訪ね、節子先生にお会いして当時の様子をお伺いした。
 また中学校の藤沢勝子先生には、同窓会誌に寄稿していただいた縁でお会いした。御自身勝気とおっしゃる先生と生徒の葛藤は、現代の学校ではあり得ないほど凄まじい内容であった。
 四季の写真撮影など秋田における取材では、玲子さんの妹君で、現地在住の花津谷洋一・環さんご夫妻のお世話になった。
 また玲子さんには俳句を寄稿していただいた。

 執筆につれ、蓄音機と共に歌った当時の歌をどうしても聞きたくなった。じつは二十代のころそんな思いをしたことがあったが、当時のレコードは入手できなかった。ところが最近当時のレコードから再現したCDが発売されていることを発見した。
 五十数年ぶりに聞いた。懐かしかった、泣きたくなるほど感動した。声も音質も当時のままだからよかった。最近の録音ならこうはゆかなかった。
 「旅の夜風」「純情二重奏」などなど。「宵待草」は歌詞の意味もわからずに歌っていたのだからおかしくなる。そして戦後の「リンゴの歌」「青い山脈」はこれまで何度か聞いていた。けれどもこれまでにない感慨深く聞いた。
 横須賀の三笠艦も五十数年ぶりに訪ねた。戦後は駐留軍によって大砲が撤去されたと聞いていたが復元されていた。「軍艦行進曲」「海ゆかば」が思い出される。道すがら「海軍カレー」のお店があって、明治以来なそうだから兄もこれを食ったのだろうか。

 「青い山脈」は読んだこともなければ映画を見たこともなかった。けれどもラジオでよく聞いていた。そうしたことから、歌や写真でなんとなく内容を想像していた。そこで読んだのだが、快活で進歩的な新生若人の姿勢が素晴らしかった。じつに爽やかだった。しかしながら社会の風潮は当時も現代もさほど変わらない。
 中学から東京に引き上げて以来、西洋文化・文明に驚嘆し、その吸収に没頭したが、少年時代を回想したことで、はからずもタイムスリップしたのである。
 そして疎開当時体験した、あらゆる自然は永遠ではないことを昨今の情勢から痛感するのである。
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