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太平洋戦争のさなか、昭和十九年(一九四四)には東京が空襲されるようになった。
やがて通学する【茅場国民学校】は七月中旬に閉鎖された。そして三年生以上は集団疎開が始まり、一・二年生は縁故疎開するように通達された。
私は二年生なので、十二月八日の夜行列車で上野を発ち、母と二人で秋田県へ疎開した。開戦からちょうど三年目で、この日は坊主頭にし、出発の準備であわただしく極めて印象強い。その夜の上野駅は東京を脱出する人たちで超満員であったが、連日こうであったに違いない。
そして昭和二十年一月中旬に仙北郡【長信田国民学校】に転校した。同年八月十五日終戦。三年生のときだが東京は戦災で荒廃し、前途は不安と不明で事態は混沌とした。そうこうするうち復興の兆しがあり、それを待って小学校卒業まで滞在した。
都会から奥羽山脈の麓の村に疎開したのだから環境の変化は凄まじく、ことごとく未知の世界であった。当初は言葉も満足に通じなかった。けれども自然環境に魅せられ、好奇心旺盛に遊ぶことができた。こうした体験は知識だけではなく、体で覚える、つまり感覚を鍛え思考力や感性を培った。すると知識欲も旺盛になり、楽しく充実した日々であった。
そうした数々の体験に現代の視点を交えて回想する。
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