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 通学路の景色はじつに多彩だ。こうした環境を歩くだけでも、感性が磨かれたように思う。
 下校は時間に縛られることはなく道草しながら気ままに遊んだ。






 最初の一年目は混沌としたうちに過ぎた。二年目に入ると慣れたせいか、周囲をよく認識できるようになった。戦争も終わり、東京の心配をすることも少なくなった。なによりも死の恐怖から脱却できたのだ。
 戦後間もなく新制小学校になったと認識していたが、最近発見された通信簿によると五年生(昭和22年・1947)からであった。
 学校も楽しくなった。学校では当然同級生と遊ぶ、いや勉強もする。床や窓ガラスの掃除もする。生徒の名前もほぼ全員覚えたようだし、会話も比較的自由にできるようになった。好意的な生徒か否かも漠然とわかった。
 学級内ではいくつかの仲間があり、それは住まいの地域と一致しているようだった。互いに家や家族まで知っているし、通学路は一緒だからより親しみがある。
 このころから小松辰美君が登校時に誘ってくれるようになった。遠くから「ノボー」と私の名前を繰返し叫びながら走ってくるのである。民作君、孝次君も一緒だった。私はのろまだから、いつも待たせたようだ。
 同姓の生徒が多いのも不思議で、みんな親戚かと思うほどであった。これは最近になって事実であることがわかった。狭い地域だからどこかで繋がっているそうだ。けれども石や草木に同じ形がないように、人の性格はみな違う。活発な子もいれば、おとなしい子もいる。

 登校時は時間の余裕がないから、せっせと歩いたり、石を道から逸らさないように蹴りながら走ったりだ。より遠くに蹴るには要領を習得できる。同じ石を学校まで蹴ってきたときは気分がよかった。石に旅をさせたようで、その石に愛着がわく。
 帰りはきままな道草が普通だ。時間や制約に束縛されず、一途に気の向くままであった。これを無駄な時間というのだろうか。人生こうした時期が必要だ。成人してからではこうはゆかない。なぜなら時間や仕事だけではなく心身共に純粋ではないからだ。実際その後これほどの自由時間はない。

 担任の先生は、やはり疎開してきた数人が入れ代わり、五年と六年が地元出身の安達悟郎先生だ。先生は学生服で十四、五才であったが、それでも小学生から見れば大人であった。当時同窓生の高橋玲子さん(現姓・武田)は通信簿に記載された筆跡を見て「安達悟郎先生のご指摘は達筆で書かれており、とても今の中学三年生くらいの少年が《先生だった》とは思えないほど驚異なのが実感です」と述べている。






















1953年

 授業はたんたんとしており、際立った印象のないのがよかった。競争心をそそのかすこともなく、いや、あったとしても無頓着だから気にかけない。過激や興味本位は続きを期待し際限なくなる。平凡に勝る幸せはないというが正にその通りだ。

 立たされた経験が幾度かあるからワルだったのだろう。それはなぜか楽しく、罪悪感や苦痛を感じたこともさほどない。そこは鈍感か相当にいいかげんであったのだろう。しかも教壇の前や後で立たされるのは効用があった。生徒全員を眺めることができるので、授業に集中するヤツとそうでないヤツが判別できておもしろかった。そんな具合だから、罰せられている意識よりは楽しんでいるかのようであった。
 次に水を入れたバケツを両手に下げさせる。これもおかしかったし、考えるもんだと思った。廊下に立たせるのは見せしめだ。他の組の先生や生徒がからかいながら前を通る。クスクス笑いながらの女生徒もいる。そんな時は立たされているのではなく、なんとなくそこにいるフリをしてごまかそうとするが通用しない。
 教室入り口の扉に黒板消しを挟んでおくのは全国共通していたようだ。たぶん体罰の方法もそうだろう。ガキとはよく言ったもので体で覚えさせる時代がある。しつこいほど言う自然環境での行動は常に体罰されているともいえる。けれども不平不満はおろか、手に負えなければ服従するしかないこともわかる。

 自分勝手かもしれないが不可解なことがあった。それは通信簿に
 「なにごともよくやり、また良くできますが、ときには弱い者をいじめるといった行為が見られるのが残念です」とあるのだ。 当時からこのように記憶していた。
 びっくりしたのは私だけではない、母が先生に聞いてきた。するといじめられる女生徒がいるという。私は女生徒に笑われることはあっても、いじめたことは断じてない。それくらいの見識はあるつもりだ。同窓生の小松辰美君によると話し方の問題ではないかというが、そんな知能があったのだろうかと思う。
 大人の会話で「おなごは…」をよく耳にした。じつに嫌な言葉だ。深い意味はわからなくても感覚的に嫌いであった。男尊女卑は知らなくても、日常の言動からして女性を見下げているのは小学生でもわかった。だから女生徒をいじめるとは言語同断で、断じてそのようなことはないと確信していた。

 疎開先でいじめられたという話は全国的にある。人は本能的にこうした習性?があるらしい。相手をあなどることで優位に立とうとするのか。明確な理由はないから、些細なことが原因のようだ。そうは言うもの些細なことは大きい。ひとつ一つを見ればみな些細なことだ。その積み重ねが大きく影響するといっていい。
 疎開した当初は嫌な思いはしたが、いじめられたというほどではない。ただ私に好意的ではないと思える生徒はいたようだ。私自信もそうした生徒には親しみがなかった。
 疎開者とよく言われたがどうということはない。けれどもみくびるように差別する風潮が感じられた。それは高学年になるほどよくわかり、子どもも大人も、それよりもなによりも、家族でさえ差別しているではないか。生徒同士はむろん、先生も生徒によって接し方の違いがわかる。

 父や姉が東京から来るたびに持ってきたので、教科書以外に本がいつもあった。それらが自慢のようにみえて、差別の原因になったのかも知れない。辰美君によるとボロボロになるほど見たと言う。
 たぶんそうした本を何処でどのようにして買えるのか、お母さんを連れて聞きに来た女生徒がいた。母に話すと「どうして見せてあげなかったの」と言われた。男女が親しくするだけで、あれこれ言われるから敬遠したのだと思う。

1948年(昭和23年)

 配付される教科書は質のよくないわら半紙で、製本されていないから生徒がめいめいに折って綴じた。鉛筆も嘗めて濡らさないと書けないような代物だった。野球のグローブもボールも布製だった。だからよく修理して使った。

 本で印象にあるのはピラミッドの高さを計る話があった。現在のように精密な計測器がない時代にどのようにして計ったかというのである。
 「手ごろな長さの棒を立てて、棒の長さと影が一致したとき、ピラミッドの影の長さは高さに等しい」というのだ。
 これを読んだときは興奮した。容易に理解できただけではなく応用できるからだ。早速長さの異なる棒を何本か立てて実験するとどれもぴったりだ。確認できたらますます興奮した。基準になる三尺くらいの棒を立て、同じ長さの影の位置を印して、柿の木や稲架の影を縄で計ってみた。すると高さは見上げた感じほどではなく、意外に寸法が短いことがわかった。学校で誰かに話したが、まったく興味を示さなかった。
 家に帰って母に話すと、「ノブオだってほかの人に、そう思われることがたくさんあるでしょう」さらに「自分がわかったからといって、ほかの人もわかっているとはかぎらない。その逆もある」と言われた。なるほど逆もあるんだ、そういうもんかと思った。自分本位ではいけないが、それにしても人の興味はこれほど違うものかと思った。

1947年(昭和22年)

 そのころ日時計の原理を知って庭に作った。だれが最初に発見したか知らないが、自然を利用する知恵に感心した。家の建築現場といい実際に体験したことは忘れない。
 算術や理科の類いは記憶しなければならない。それよりも図画や工作、綴り方は自分の考えでできるからおもしろかった。音楽も楽しかった。明解な解答というよりは、上手にできればいいといった曖昧なところがよかった。

 現代の小学生は当時と比較にならないほど多くの知識があるだろう。けれども体で反応する能力や思考力はどうだろう、野山を走り回ることができるだろうか。この意義がわからぬ者は笑うだろう。なによりも受験に関係ないと言う向きもあるだろう。
 受験目的がそもそも誤りなのだ。これがなかったら活き活きと輝いてくるだろう。けれども受験がなかったらどうなるんだろうか。学ぶべき目標を見失うかもしれない。予備校は廃業に追込まれ教師は失業する。そう考えると、受験戦争のおかげで学校と予備校が成立っているのかもしれない。なぜ目標を決めて闇雲に向かわなければならないのだろうか。それは中学か高校くらいからでよいのではないか。そのために、自由で感性豊かな子どもの時代が必須なのだ。

 世間は通勤地獄や階級闘争だ。この国と呼ばれる先進国は地獄や闘争に生きるのだ。人は組織に所属すると安心する。けれどもそこでは闘争が待ち受けているのだ。
 なにもなければ自主的に行動するし、そこに思考力や創造力が芽生える。それを手助けする教育が重必須なのだ。自主的な行動は苦ではなく楽しいことを知る。人生こうした自主性を認識する時代がなければならない。仕事は自分で作るものだが、与えられるものと認識している人が多いのは、自主性の欠如に他ならない、

 記憶というものは単にそれが目的ではなく、なにかを媒体にすると自然に覚えてしまう。入学以前にかるた遊びでカタカナを覚えたのがそうだし、五年生のころ日本地図を描いて、そこに代表的な国立公園と河川、鉄道路線をスケッチをしたら自然に覚えてしまった。国立公園の名称は今だにこのとき覚えたままだ。紙は二人掛けの机からはみ出していたから、小学生にしてはかなり大きな絵であった。
 関連して、東京から疎開してきたので、奥羽本線で秋田までは何キロくらいか調べたら五百キロだ。それなら反対側の東海道線はどこまでか調べると京都であった。次いで日本列島の距離を調べると、どこでもおよその見当がついた。
 名称や数値を単に記憶するよりも、時間はかかるが、描くことによって自然に覚えることがわかった。むろんすべてをこうした方法では時間がかかり効率がよくない。けれども経験を踏まえていると、関連して思考することができるから効果的ではある。

 ただし子どものころに覚えたことをそのまま引きずるのは、進歩が停止することでもある。ことに仕事に関連することは常に探究しなければならない。私自身もそうだが、そうした大人に間々出会うことがある。

 嫌なものは避け、あるいは排除していては個性もなにも育たない。さらに過保護は可愛い、綺麗、汚いといった感覚しか身に付かないし不平不満が蔓延する。現代女性にパステルカラーや原色を好み、度が過ぎた清潔好きがなんと多いことか。

 東京の校舎はコンクリートで、道路と同様に堅いから走ると足や頭に響いた。木造校舎は地面と同様にあたりが柔らかく、歩いても走ってもギシギシガタガタ音がして反応する。それはあたかも耐えているかのようであった。さらに木造は傷むからより親しみがわく。「なぜかって?」それが心の有り様だ。強固で傷みや破損がなければ、耐久性に優れているがこうした感情はない。馬飛びで自分が馬になったとき、それは正に床になったのだ。傷みは人間だけにあるのではない。万物の傷みを知れば、慈しむ心が育まれよう。

 開き戸の開閉は無造作に引いても円滑に動かないことがあるが、そこは手加減だ。とくに数枚が連なる雨戸は顕著だが、これらは子どもでも心得ている。不平ではなく疑問と解決策が思考する。これらはこうした環境で生活すれば無意識にも知能が働く。さらに不具合な扉は、対人関係にも共通していることを知るのである。

 床や窓の掃除も木造ゆえに楽しかった。廊下の雑巾がけは遊び感覚だ。鉄やコンクリートにこうした感情はありえない。木造校舎に親しみがあるのは、肌に合うし情操的だからだ。懐かしさを誘うのは、無意識にもこうした情緒があったからだ。
 現代において不便や耐久性のない建造物を強いるのではない。当時はやむを得なかった。けれどもこうした環境が情念を育んだ。不便は人を利口にし、体をよく使うから健康にもよい。便利はその逆であることが本当によくわかる。

 校舎からはときおり歌声が、運動場からは元気な声があった。なんと平和でのどかな景色だろう。それは木造校舎や自然環境がより雰囲気をかもしだしていたのだ。情操教育にこれほど優れた環境はないと確信する。

 小刀あるいはナイフは日常携帯していたが、どれほど有用な道具であったかははかりり知れない。鉛筆削りはむろんのこと、工作や遊び道具を手作りしたり、生活用具の修理などなど、その用途は無限であった。自分の手でなにかができてゆくのはじつに楽しく、また能力が拡大してゆくようで楽しかった。一本のナイフがこれほど心を豊かにしてくれたのだ。
 道具を使うには技術を要するが、それだけではなく感覚も自然に身につく。感覚は知識と同様に培わなければならなが、むしろ知識以上と認識している。知識量はある程度書面で判断できるが、感覚はそうはゆかない。
 思考、創造、善悪、秩序といった精神世界は知識も重要だが感覚の世界だからだ。にもかかわらず、知識の詰込みに走るのは教育上簡単で楽だからだ。
 ところが感覚はそうはゆかない。環境や生活にかかわる問題だからだ。

 運動会は父兄だけではなく、一家総出で観覧にくる家庭もある。学校の行事というよりは村祭りのようだ。東京では紅白の二組であったが、ここでは紅白に黄と緑が加わり四組だ。生徒数が少ないわりには組数が多かった。

 不思議な光景に出会った。学校の帰りに半鐘の音がするので振返ると、火の見櫓が夕焼けを背景に、くっきりと影絵のように浮かび、とても印象的だった。なにげなく見ていると、なにか変な感じがした。それは半鐘をたたいたときではなく、槌を背後に構えたときに音が聞こえてくるのだ。音はすぐに聞こえると認識していたが、ここで音は伝わってくるのだとわかった。

 遊びは近所の子どもたちや学校の帰路同じ方角の同窓生であった。また一人では自分の意思だけで行動できるから、これはよいことだと気がついた。だから寂しいと思ったことはないし、むしろこの方がよいとさえ感じるようになった。

 馬飛びや騎馬戦は過酷だからおもしろかった。体力の限界に挑むほどおもしろいのだ。こうして感覚や体力を身に付けてゆく。遊びながら成長を促進してくれたのだ。なんと都合よいではないか。これほど優れた遊びを、危険の一言で禁止するのは現代社会をよく象徴している。つまり《ことなかれ主義》というやつだ。

 感覚や体力を身に付けるのは、子どもにとっては生涯の問題だ。けれども学校側にしてみれば、怪我など問題が起きないことの方が重要なのだ。生徒の生涯よりも在校中が問題で、管理者の身に降りかからなければよいのだ。こうして虚弱体質に育成されてゆく。現代でもまれに体罰をする教師がいるが、加減を知らないから生徒を殺してしまったりする。不謹慎のようだがまことに滑稽と言わざるをえない。これすなわち実体を知らずして、書面だけで育ったからこういうことになるのだ。

 小学生時代の私は背丈が大きい方だと思っていたし、数人の同窓生もそのように言う。けれども最近入手した学級記念写真によるとそれほどでもない。たぶん印象としてそのように感じていたのだろうが、記憶の曖昧さを見た思いがする。

●夕闇迫る林道
 暗くなれば寝て、明るくなれば起きるという生活だからまことに健全であった。昨今のように省エネなどといわなくてもよかったのだ。「早起は三文の得」と聞いたが、そんなことはどうでもよく、第一損得勘定などしたことがない。これは現在でもさほどかわりなく損得優先で行動するのは嫌いだ。

 電気が通じるようになったのは、戦後二年くらいしてからだと思うが、それでも八時ころには寝ていた。昼間の遊びでぐっすりだ。かような具合だから一人で闇夜に遭遇することはなかった。けれども秋が深まると暗くなるのも早い。

 下校は道草が常だが、あるとき途中で学校に忘れ物をしたことに気付いた。まもなく日が暮れるころであったから、引き返せば暗くなるのを懸念しながら取りに戻った。
 帰りは案の定、薄ぼんやりとしてきた。林道にさしかかるころには夕闇が迫り一気に暗くなった。林道は日中でも薄暗いのだからなおさらだ。この道は一直線だが抜けるには十五分くらいだ。当時時計は持っていなかったが、多分そのくらいだったろう。
 そういえば時間の観念はなかったように思う。まことに成行きであった。腹時計が速めなことはわかっているし、周りの自然からおよその時間は見当がついた。

 普段でも時折枝を拾って棒にして持ち歩いたが、このときは無意識に武器としての棒であった。たぶん恐さがそうさせたのだろう。
 走ったり急ぎ足だが路はでこぼこなので、頻繁につまずいたり窪みに足を取られて何度も転んだ。そんなときは四つん這いでなん歩か進みながら立つといった具合だ。地面をなぞるように歩くと比較的転ばないが速度が極端に落ちる。棒を地面に軽く押付けて引きずりながら歩くと、転びそうなとき支えになることに気がついた。とにかく恐くて止まることができない。

 ぞうりなのでペタペタとかバサバサといった足音がする。自分の足音とわかっているが、誰かが後ろから追いかけてくるような錯覚におちいる。棒を地面に押付けるよにして引きずってみたり、大声を出してみようと思ったり、錯乱していた。あえぎながら逃げるように闇雲に走り、一歩一歩前進しているのに一向に進まない感じがした。
 疲れてゆっくり歩くと足音も同調する。恐くて振り向くこともできない。こういうときにかぎってか、静寂そのもので無気味だ。風があればそれなりに恐いだろう。かすかな風でも枝や葉音が無気味なことがある。それがこうした情況ならお化け屋敷だ。かすかにぼんやり見える樹木は化け物が潜んでいるかのようだ。お化けとか幽霊が出そうな幻覚に襲われる。恐怖が全身を包み暗闇に吸い込まれそうだ。

 林道の前方を見ると、梢は真っ黒だが空がほんのり明るく、かろうじて道の方向がわかるくらいだ。直前は暗闇に近いから、空の明りを頼りに急いだ。この道にはなじみの樹が何本もあるのに、それらは知らん顔だ。

 疎開してから、少なくとも二年くらいは毎日歩いて勝手知る道なのに、なんと長い時間だったろう。昼間なら十五分くらいだろうが、その数倍かかったのだろう。これほど時間が長く感じたことはなかった。

 林道を抜けたからといって明るいわけではない。それでもかすかに道はわかる。こうして家にたどり着いたときには、もうろうとしていたようだった。
 母はたいして驚いた様子もなく、落ち着いて手ぬぐいを絞ってきて手足を拭いてくれた。急に痛みが走り我に返ったのだ。膝と手の平は血だらけであった。
 当時は普段でも生傷が絶えたことはないが、これほどひどくはなかった。それなのに、これほどの傷を負いながらたいして痛みを感じなかったのはなぜだろう。それは多分恐怖のあまり神経が麻痺したのだろうか。そうだとすれば痛みも気分次第なのかも知れない。

 かえりみるに恐ろしくも素晴しい体験だった。よい経験をしたと思う。なぜか恐怖は神秘的で美さえ感じるのである。それは理性を失いかける極限状態だったのかも知れない。その場は前進する意識のみであった。
 ここでわかったことは時間である。楽しい時間は短いが、逆の場合は長いことがよくわかる。こうしてみると時間の概念というものは心のあり様で決まるのだ。

 秋田での小学生時代は四年間であったが、近年の四年間とは比較にならないほど長かった。一ヶ月も、一年も、とにかく長かった。多少は勉強もしたが、好奇心旺盛な遊びが生活であった。それは面白くて愉しかった。にもかかわらず長かったのはなぜだろう。多分そのときは短かったけれども、後々思い出して長かったと感じるのかも知れない。

 待ち合わせの時間に、相手が来ないと数分でも長く感じる。退屈しているとその場の時間は長い。けれども後になれば、そんな時間はなかったに等しい。
 仕事でも娯楽でも、おもしろければ早いし、つまらなければ遅い。こうした経験は誰にでもある。有効な意義ある時間はその場は短いが後には長く感じる。無意味な時間はその場は長いが後には短く感じる。

 また年令と共に年月が短くなるのは、楽しいからだけではないようだ。数十年も同じ仕事を繰り返していると慢性的になる。習慣的な反復、惰性で動いていると、時間の感覚も麻痺するのではないか。事務職なら一日でも苦痛な私だから、生涯同じ仕事の繰り返しなら、あらゆる面で麻痺するのは当然だと思う。「初心に帰れ」とはこうした事情をも示唆しているのだろう。よい時間は短く、そうでない時間は長い。喜びは束の間だが悲しみは続く。怪我は一瞬だが治療は長い。お金を使うには一瞬だが、溜めるには長い。などなど。

 少年時代の、たぶん一時間くらいと思われる体験が、これほど多くの試練を与えてくれるとは、体験はなんと素晴らしいことか。
 現代の児童にこうした体験ができるだろうか。「そんな必要はない」のではなく経験すべきなのだ。けれども大勢で引率者がいて、懐中電灯を消したら暗闇だったでは経験にならない。それは単に暗闇を見たに過ぎない。
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