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家庭



































 家を建ててからも通年共にしたのは母と二人で、教育熱心ではなかったかは定かでないし、あるいは諦めていたのか勉強を強要された記憶はない。それは成績がそれほどわるくなかったからだと思う。よって自由奔放な生活だった。とくに動き回ることがおもしろくて夢中になった。地元の子に比べれば弱々しかったので、なによりも体格の向上と元気を願っていたのだろう。

 自由とはなんと尊いものか。けれども自由はなにをしてもいいと考える向きがあるのは情けないことだ。自主性ゆえに秩序や責任、さらに言えば結果を問われるのだ。そうした意味ではもっとも厳しい制約ともいえる。

 毎日外に出るときは檻から放たれた動物のように飛び跳ねた。そんな具合だから歩き方をよくとがめられた。だらしのない歩き方に見えるらしく、酔っぱらいみたいだといわれた。私は歩き方を試みていたのだが、そんな説明をしても笑うだけで理解してもらえない。もっと広く言えば行動の仕方を研究しながら試みていたのだ。

 夜は面白くない母との会話に応じなければならないから勉強するしかない。だからそれらしくしていれば安泰だった。けれどもあざむいているときは、体裁だけだとよく見抜かれた。だから発覚しないように思案するのが知恵比べのようで、これまた楽しかった。それなら素直に勉強すればよいのに、いこじに、ひねくれてきたのか。
 学校から帰ると捕まることを察知して素早く逃げた。遊びに夢中で忙しく、また興味や関心事が転々とするので落ち着きがないとよく言われた。これは通信簿にも先生の指摘があった。

 はっきり返事をしないと苦情が、返事をすればしたで返事だけだと言われる。いったいどうすればよいのか。すると、はっきり返事をするのに限ってなにもわかっていないと言う。一層わからなくなる。聞いていないとか生返事だとか、小言が多くうるさいと思うばかりであった。

 「ニワトリは三歩歩けば忘れるが、ノブオは一歩どころか立てば忘れる」と笑われたのはおかしかった。ニワトリが目に浮かび、なおさらおかしかった。なぜかおかしく笑い転げた。ニワトリよりも下等に扱われたのが、かえってニワトリが愛しく思えた。

 やがて一方的に説教するのではなく、納得させようとしていることがわかってきた。それは理屈ではなく感覚的であった。ことに「ことわざ」を引き合いにした話は興味を引いた。なぜなら言葉だけではなく、その世界が実在したからだ。しかも理解できなかったり解釈の誤りを認識したとき、これはいけないと思った。
 「ことわざ」は歌留多でいくつか知っていたが意味は曖昧だった。けれども実際にその世界があったから日常生活の産物だったのだ。「論より証拠」というが、実在して確認することができたのだ。これは面白かった。

 「花を摘んではおつむにさせば」
 と歌われたくらいだが、自分も子どもだがさらに女の子みたいで、恥ずかしい感じがした。縁側で母とそんな話をしていたら
 「ノブオがおつむにさすよりも、そっとしておきなさい」といって笑った。
 花も静かにするのかと思った。そうか、採ってしまうよりも採らない方がいいんだ。採ってはいけないのではなく、採らない方がいいんだ。こうした考えが巡るのは新鮮で、利口になるような気がした。環境と会話が、自然にこうした思考に仕向けてくれたのだ。
 そのせいか、フラワーランドだかよりも、野にぽつねんと咲く花や、庭の千草に心ひかれる。それに「そっとしておく」という表現が奥深く慕わしい。

 農村地帯は有機肥料だから臭いのは当然だ。とくに人糞はその臭さといったら目が痛く、鼻がひん曲がると思うことがある。だから「臭い物に蓋」はそれを指していると思っていた。大人は悪いことをしないと認識していたから、悪事に蓋は意外だった。

 糠(ぬか)は見て触れていたから「糠に釘」は利き目がないことがよく理解できた。
 すると「ノブオにはなにを言っても糠に釘」と追討ちかけてきた。悔しいけれども面白かった。未知の世界が見えてくるようだった。すかさず「食わず嫌い」を納得させられた。ここでは食物だけではなく関連して喩えることがわかった。

 脱殼機から米と籾が別々に掃き出され、見る見る山を築いてゆくのを見ていると、少量であっても時間が経てば「塵も積もれば山となる」が納得できた。
 農家建築は板張りで、錆びた釘があちこちに出ている。だから「出る釘は打たれる」はそのことだと思ったが、後に人をなぞらえていることもわかった。
 「逃げるが勝ち」は卑怯だと思ったが、場合によっては利口かと思った。「井の中の蛙」は、もしこの村で生れて、村を出ることがなければその通りだと思った。実際に年輩の方で、汽車を見たことがないという人がいた。

 その後「己を知れ」「棚からぼた餅」「雨垂れで石に穴があく」「一を聞いて十を知る」「男は無闇に笑うな」「石の上にも三年」などなど説明されて面白いと思った。

 そうか、理解なんだ、理解できればいいんだ。
 「可愛い子には旅をさせろ」とか「他人の釜の飯を食わなきゃ一人前にならない」などなど聞いたが、そんなときはなぜか「親はなくても子は育つ」を知っていて反抗したのをよく覚えている。知恵比べは楽しいが負けるのが悔しかった。

 だいたいにおいて「ひい、ふう、みい…」と数えるし、動物を指して罪のない顔をしているなどと、わけのわからないことを言ったり。いつも着物で意味のわからない言葉を使うし、古い言葉も出てくるから昔の人という感じがしていた。

 釣合という言葉もよく聞かされた。釣合がよくなければならないことはよくわかる。そこで釣合とはモノ同士や、人とモノとの関係かと思っていたが、ある夫婦のことを釣合がよくないのではといったので、人間同士もいうのかとびっくりした。
 そこで友達との関係を見ると、気が合うのは釣合がよいからだと思った。さらに釣合がいいから友達になる、あるいはよくないから友達にならないのだと思った。そして釣合とは万物に共通していることがよくわかった、

 家の手伝いはまれに薪割りやちょっとした物の運搬、雑巾がけくらいだ。近所の農家では自分が経験したいがために手伝わせてもらうことがあった。とにかく動いたのだ。動いて動いて動きまくったのだ。そこに体力の向上と知恵や感覚、思考力が芽生えたと確信している。

 父は機械の設計技師であったが、秋田でそのような仕事はない。けれども知識や技術を活かして松根油や石鹸などを作った。石鹸のブロックを小さく切るのは針金だ、これはいい考えだと思った。
 東京の復興につれ行き来が頻繁になり、そうした関係からか東京からの来客もしばしばであった。お客さんとはいつも発明のような話をしていたのをよく覚えている。父もそうだが、お客さんは私に「他人と同じことをするな」とか「耳学問だけではダメだ」とよく言われた。他人もそう言うのだから間違いないと思った。身内よりも他人の言うことは真剣に聞いていたようだ。また「なんでもわからないことは早く聞いたほうがよい」といっていた。

 軍隊でかなり偉かったらしいお客さんがいて、日本が負けたのは海軍と陸軍が、面子かなにかは知らないが、互いに張り合って、協力することがなかったのも原因だと言っていた。そういえば大人同士のそうした情況を見ていたから説得力があった。
 そこで「諸悪の根源は家庭から」を教わった。これまで幾度となくこうした情況を見てきたことか。
 「諸悪の根源は家庭から」とは、家庭のみを指すのではない。すべての組織、そして個人的には自身の内面をいう。自分もそうならないように戒めている。

 荷車や馬車などを作る、車大工の小松武ェ門さんとも話がよく合うようで、毎晩のように見えていた。玄関先で必ず咳払いするのが来訪の合図であった。東京に引き上げてからも武ェ門さんとは文通をしており、一九八二年に訪ねたときは、父の手紙や写真をアルバムに整理してあるのを見せていただいた。

 偉人の話も書物や教科書にあったし聞かされたりもした。自分はそのようになれないと思ったのか、数人の偉人よりも皆が平均的に向上したらよいと思った。なぜなら迷信を信じている人がいたし、封建的な考え方も子どもなりに感じていた。さらに大人は悪いことをしないと信じていたが、そうではないことがわかってきたからだ。
 二宮金次郎だってそうだ、細い枝をあんな少し背負うなら本も読めると反発したものだ。農村では人が見えないほど背負う。荷物が歩いているように見えることもしばしばだ。
 二〇〇一年に秋田の取材で案内していただいた花津谷環さんは、現代の子どもは「二宮金次郎の真似をしたら車に跳ねられる」というそうな。

 現代ではあまりにも無闇に採る人が増えたから、花を摘むことを規制しなければならない。ある山で高山植物を近づいて見ようとしたら、スピーカーで怒鳴られたという。また高山植物の盗人を捕えたら、その道の権威ある学者だったという。無茶苦茶という以外に言葉が見つからない。

 父が猫を貰ってきた。「ちゃこ」と名付けたが、この地方では猫のことを「ちゃこ」と呼んでいた。なんのことはない、猫の名前が猫だったのだ。鼠対策なのだが家族の一員のようになってしまった。そんなわけで東京に引き上げるときは一緒に連れて帰った。
 母は「なにも隠すことがなく、罪のない顔をしている」と言っていた。罪のない顔があるのかと思った。そういえば、教養が顔にでるかどうかは知らないが、心の美しい人とやましい人は顔に現れるような気がする。立居振舞でもそれがわかるようだ。

 角館
 村に滞在中の四年間に村を出たのは隣村くらいで、町へは二・三度くらいであった。当時荷物は駅留だから駅まで受取りにゆかなければならなかった。
 角館は雪路がとても汚れていることに気がついた。それは人家が村よりも密集し、人の往来が多いと汚れることがわかった。

 これからの日本は英語が必要だという。鬼畜アメリカ、負ければ皆殺しではなかったのか。皆殺しはなかったが敵国の言葉を勉強するとは、これはいったいどうしことだと納得できない。東京では子どもも進駐軍と仲良しだという。随分簡単に気持ちが変われるもんだ。東京へ帰ったらアメリカ人と仲良しになれるんだろうかと思った。
 でも英語の本は字が違うが興味を引いた。それはローマ字というもので、読み方は日本語だがアルファベットで表記する。五線譜のような帳面に練習するようになっていた。

 葬儀を見たのもはじめてだ。兄の戦死広報がきて、名前を書いた紙が一枚入っていた。そのせいかとても死んだようには思えなかった。父は背丈よりも大きな仏壇を購入した。角館で購入したと聞いていたが、後年一緒してくれた人の話によると川連だったという。荷車で川連往復はさぞかし難儀であったろう。
 僧侶の読経はその意味がさっぱりわからなかった。でも大人はわかっているのだと思った。じつに不思議な光景であった。

 ところで何で生活していたかというと物々交換したそうな。戦災で消失するのが目前に迫っていたから、着物をはじめ家財道具をできるだけ送っておいた。とくに着物は農家に喜ばれ米と交換できた。野菜を届けてくれる農家もあった。とても好意的な農家が二軒あったのを覚えている。相手が好意的だからいうわけではないが、とても気持ちのよい人たちだった。むろんこちらもそれなりにしていたからだろう。

 戦後も食料事情がよくないことは変わりなかった。米の生産地でありながら米が不足していた。農家でさえ「食うようねェ」といって貸りにくる人がいた。栄養がどうのこうのという以前に、口に入るものがなかったのだ。

 村には食料品の売店はない。こうした事情では「お金は役に立たない」と母は言った。売買はモノがあればこそで、なければ互いが納得する物々交換しかない。お金が万能ではないことがよくわかるし、それは現代でも同様だ。
 モノが溢れる現代でも「お金が役に立たない」ことを心得るべきだ。

 もちろん心を売買することはできないし、個人にかかわる体力や能力も売買できない。それらは生活習慣や努力によらねばならない。子どもは親の背中を見て育つという。論より証拠で示さなければならない。「親の顔が見たい」とはよく言ったもんだ。

 魚はほっけやカズノコ、ハタハタなどが記憶にある。これらは行商のような感じで売りにきた。

 家に隣接して柿の木があり、夕方はそこに登って縁側に置いたラジオを聞いた。「鐘の鳴る丘」は戦争孤児たちであったから私はよかったと思った。テーマ曲は知れ渡り、しばらくすると英語の歌詞が放送されるようになった。「向こう三軒両隣り」では大人の世界がわかってきた。「さくらんぼ大将」は楽しく友達のようだった。
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