menu





























 二年生の三学期途中から転校したので二ヶ月ほどで三年生になった。
 昭和十九年七月中旬に【茅場国民学校】が閉鎖され、転校するまで半年の空白があったので母は成績が心配であった。けれども優が六つ、良が三つであったからさほど悪くはなかったのだろう。もとより私は勉強だの成績などに関心がなかった。読み書きは同級生に遅れをとっているとは思えなかったし、むしろそれ以上と自負していた。

 昭和十九年から二十年は、まれにみる大雪だったそうで、四月とはいえ真冬のようであった。土に埋めた野菜を掘り出すのを見ていると、大人が雪に完全に潜ってしまう。杉の葉で包んであるのはネズミやモグラから守るためなそうで、そういわれると杉の葉は有刺鉄線のようで、いわば鉄条網のようであった。

 雪解けの季節になると景色は一変する。その様子は家の軒下周辺から、路に、田畑に、川淵に、林や野山に、あらゆる場面で見ることができた。晴れ間が多くなり、雪が解けて小川に落ちるころ、植物は活動をはじめる。ドングリに毛が生えたような実は猫柳。バッキャ(ふきのとう)も覚えた。草花や樹木は芽吹き、鳥がさえずり、飛行機のように編隊で飛ぶ鳥はなんとも不思議であった。燕も間近に見ることができた。

 自然の活動を目前にし、これが春なのかという感じがひときわ新鮮で、心身ともに軽くなるようだった。実際衣類は相当に軽くなって行動しやすくなり、春の素晴らしさに気持まで晴れ晴れした。東京ではこれほど季節感を感じることはなかったからだ。
 東京でも公園などで草木を見ていた。けれども地面は平らで整備されていたせいか、作り物のようであった。それに毎日見ていたのではないから、変化する過程を見ることはなかった。やはり自然環境で生活しないと認識できないことがよくわかる。

 『春が来た』や『春の小川』の情景に浸り、自然に口づさんでいた。そういえば『夕焼け小焼け』も『里の秋』も、まさにその世界であった。都会の教室で歌うのとはなんたる違いだろう。絵空事とはこのことだ。『村の鍛冶屋』も『村祭り』もあった。すべてが理屈ではなく自然と対話し同化していたのだ。体験はなんと素晴らしいのだろう。

 こうして春が訪れることをはじめて知った。秋田にきたときは一面雪の世界であったからなおさらだ。道はぬかるみ、ときには泥だらけになったが、とても明るい気分であった。いくら汚しても、母は怒るどころかとても喜んでいた。
 地元の子に比べれば色白で弱々しかったので、なによりも元気なことを願っていたのだろう。あえてぬかるみをバシャバシャ泥を跳ねて歩いたり、飛び越えたり、真直ぐに普通に歩くことはなかった。自然にそうなるのだから不思議だ。
 汚れることを気にしなくてよいのは、じつに痛快だ。子どもはこういうことをしたがるものだ。思うに現代は、あまりにも気にすることが多い。だからストレスやらなにやらが溜って平常心を失うのだ。

 すっかり雪が解けると地面が見えてくる。これほど変化に富んだ地形を見るのもはじめてだ。歩いても走っても、東京でのアスファルトやコンクリートよりも楽であった。土は柔軟性があるので体に響かないからだ。また踏み締めている感じがひしひしと体に伝わる。こうなると自然に飛び跳ねたりするから不思議だ。

 かゆいから「カイカイ」と呼ぶのだろう。全国的に流行ったらしいから、当時を知る人はたぶん懐かしい名前だと思う。風呂も満足に入れなかったから衛生状態が悪くシラミが繁殖した。皮膚の弱い部分がとくにかゆく皮膚病のようだ。その治療に青森県との県境にある陣場の温泉に行った。たぶん父が東京から来たとき、母と三人だったように思う。
 陣場駅から歩いたのだと思うが、山道にかかると一人がやっと通れるくらいの細い道が延々と続く、かつて那須に行ったとき、こんな道を歩いたのを思い出した。急斜面は恐いが、林の中だと下まで落ちることはないから心理的にも安心だ。それにしてもこんな山奥に温泉があるのだろうか。
 湯治場は廊下にも人が溢れてごったがえしていた。それはあたかも避難所のようで、こんなに大勢があの山道を通ってきたのかと思った。
 幸い私たちは一部屋に泊まることができたので部屋の内と外は別世界だった。入浴は日に数回だ。そのたびに廊下を通るから様子が目に入る。長期滞在で自炊するのだという。
 温泉はどんより濁って気持悪く、最初は入るのに勇気がいった。浴槽も床もヌルヌルして転びそうだ。

 体を洗っていると馬の周囲に飛交う大きなアブが舞う。羽音といいまさに敵機来襲であった。だから避けるのも遊び感覚だ。逃れるように体をくねらせていると、床板の隙間にお尻が挟まってしまった。もがくほどに締付けるから、その痛さは大声で泣きたいくらいだが敵機は容赦なく襲いかかる。手拭いを振回して撃退したがお尻は被害甚大であった。このときほど床板の隙間が恨めしく思ったことはない。

 部屋では持参した教科書や本を読んだり、窓辺に座って外を眺めた。五月の末ころであったが木々は枯れており芽吹きは見られなかった。村では雪が消えていたが、ここでは斑に残っていたからかなり山奥なのだろう。
 一週間か十日くらいで村に帰ると連日のように小雨だ。梅雨もここではじめて知った。

 田んぼの土は荒いが、苗代は細かい土のようだ。苗を育てるには、優しい土でなければならないのがよくわかる。そして万物に共通していることを理解するのに時間はかからなかった。なにか凄い力を得たような、大人になってゆくような感じがした。

 田植えは一家総出で、あるいは近所が互いに手伝う。そういえばみな顔見知りで地域は共同体のようだ。植えるのは主に女性で、ときには合唱しながら作業する。労働は厳しく、ときおり腰に手をあてがい仰向けになるように反る。そうした苦痛を知らない私は、のほほんとした傍観者であった。升目に添って植えられた苗は緑が鮮烈だ。装束といいなんと素朴で美しい景色だろう、絵のような夢の世界が脳裏に浮かぶ。

 男性は苗代から苗を運んだり、升目のついた筒状の輪をころがして植える位置を印してゆく。老若男女それぞれに仕事があり、みんなで一所懸命に働く情景をはじめて見た。これらはすべてが具体的で子どもにも理解できたのだ。これはじつに嬉しかった。

 当時同級生の高橋玲子さん(現姓・武田)によると、田植えの時期は学校が一週間から十日くらい休みになったという。人手はいくらでも欲しいから子どもも手伝わなければならない。最も忙しいこの時期は赤子も食事も野良だ。家に帰って食事などという暇はない。母親は食事しながら赤子に授乳するといった具合だ。

 子どもの仕事はいくらでもあるが、数人が列をなして田植えをする人の腰の篭に苗を入れてゆく作業がある。多過ぎると重いし少ないと間があいてしまう。作業のタイミングを見計らって苗を入れてゆくのだ。
 現代社会では田植えの手伝いをするわけではあるまいし、そんなことはどうでもいいと思う向きがあるかも知れない。けれども田植えの手伝いとは関係なく、子ども時代にこうした感覚を身に付けなければならない。ここには気配りをはじめ、不安定な田んぼや畦道を安全に歩く技も自然に身に付く。ここには人生に必須の要素が含まれているのだ。

 農家の朝は早い。薄暗いうちから朝食前に一仕事をすませる。十時と三時の休憩はタバコ時間と言ったそうな。地面にそのまま横になる。地面は暖かくて気持ちがよいではないか。これは大発見であった。土の匂いや感触は異様であったが嫌な匂いではなく、永遠に忘れることはないだろう。そのせいか今でも地面を裸足で歩きたくなることがある。動物は土にまみれるが人間とて動物だ。だから土に接触したくなるのは本能なのだろう。

 田植えが終わると大きな座敷きのある農家に集まって、植え上げと呼ばれる宴会があった。こうしてみんなで楽しむ景色をはじめて見た。日常は仕事の連続で遊びの余裕はなく、ひたすらに働く一方だ。笑い喜ぶ姿も少ないし、貧富の差があることもわかった。

 それにしても飲み食いしながら談笑に耽るのはなぜ男性だけなのだろう。女性は料理を作ったり運んだりするだけだ。宴会の終わりころにようやく参加する女性もいるが、ひたすら働くだけの女性もいる。
 言葉遣いや態度からして女性を見下げていることがわかってきた。罵声を浴びせる人もいれば、ののしる人もいる。自分の意見を強引に押付けようとする。冗談のふりして相手の様子を伺うといった卑劣な人もいる。酔いつぶれる姿態は見るに耐えないし、こうしたことから人を観察するようになったが、それは恐ろしいことであった。信頼できる人とそうではない人もわかった。大人の会話で他人の噂や悪口は茶飯事で、とくにお嫁さんの悪口は聞くに耐えない。かように人間がわかってきた。

 どんよりと水が溜ったところでは丸い寒天の固まりのようなものが無数にある。やがておたまじゃくしから蛙に成長してゆく様子はじつに面白かった。毎日そこを観察するのが楽しみだった。しみじみと蛙を見た。おそるおそる手の平に乗せて話しかけた。そして一緒に遊んだ。とても可愛かった。手の平を水辺に近付けると飛び込んだ。蛙の感触が手に残った。なんということだ、実体に触れ感覚的に知り得ることは書物の比ではない。蛙の合唱は楽しく、きょとんとした顔が目に浮かぶ。

 東京と違って遮るものがないから広かった。だから走ることが多くなる。声も大きくなる。とりつくろうことなく、思いきり自由に行動できることは痛快で気分がよかったのだ。子どもはかようにして心身共に成長するのだ。

 雲は当然だが天空に浮かぶのしか見たことがない。あるとき山に登った。それほど高くはないのだが景色を見下ろすのははじめてだった。ビルの屋上から見るのとはまったく違っていた。それは人工物ではなく、登るのも見るのも地面だからだろう。眼下に広がる景色は箱庭のようだった。しばらくして遠方に雲が降りて来て一部が地上とつながった。だれかがあそこは雨だといった。これまで霧に包まれたことが幾度かあったが、あれがそうかと思った。まるで図解を見るように現物を遠くから見ることができたのだ。
menu