menu









































 夏が近づくとあたり一面緑が被う。あるとき「腕とすね」が異常にかぶれた。草むらを走り回ったので、そのせいだとわかったが情けなくなった。地元の子に比べれば弱々しいのは自覚していたし、とくに肌は弱かった。さらに漆の木の下を通っただけで、顔が膨れてしまったのだ。でもそんなことにはめげずに遊んだ。そのせいか翌年はなんともなかった。現代のように不順なものを排除していたら永遠に免疫がないだろう。このころから擦傷が絶えたことはない。けれどもそれが普通で、ことさら問題にすることはなかった。

 役場のあたりと路の要所に細長い俵を立てて、さらに竹ヤリが数本設置された。敵が来たらこれで刺すためなそうだが、私はそんなの無理だとわかった。なにはともあれ人を刺し殺すことができるのだろうか。相手はそれを待っているのだろうか。戦術的にも、絵本で見ていた戦国時代だってもっと気が利いている。これを大人が考えるのだから驚きであった。後に全国的であったことを知って唖然とした。志気を高めるためだとしても、これほど幼稚な武装を信用すると思っての仕業なのだろうか。

 人は窮地になるとなにをするかわからない。これまで幾度となくこうした思いをしたことか。場当たりで、なぜそうなったかを究明しない。臭いものには蓋をして、自分は正しいと決めつける。ここには反省はおろか自浄能力は皆無だから永遠に続くだろう。
 「バカは死ななきゃなおらない」とは酷いことをいうと思ったが、過ちを繰り返すのを見ていると、よく言ったものだと感心する。

 第一敵が武器なしにくるわけはない。戦車や機関銃で攻めてくるくらいのことは、子どもでもわかる。それらは疎開する以前、映画や絵本でたくさん見ていた。でもそんなことは、他人に言ってはいけないと母に促された。

 当時の状況からして、そんなことを言ったら非国民扱いされ、なにをされるかわからない。最後の一人まで戦うとか、負ければ皆殺しになると聞かされていたから当然なのだろう。私も半信半疑ながら信じていた。

 あるとき見慣れぬ大勢の人たちが山へ向かった。徴兵令状がきて、山に逃げた人を探すのだと聞いた。東京ではそんな話は聞いたことがなかったが、憲兵は怖いと聞いていた。後に聞いた話では、家のおばあさんが食べ物を運んでいたそうだから、捕まらなかったのだろう。

 村は子どもにとっては平和であった。徴兵された家庭も多くあり、戦争をしていることは皆知っていたが、それがどのようなことであるのか、具体的には知らないないようであった。空襲があるわけでなし、食料に不足している深刻さも感じない。???
まれに飛行機の爆音がすると、皆は「飛行機だ!」と叫んで外に出て行く。空襲の恐ろしさを知っている私は反射的に隠れようとするのだが、ずいぶん違うんだなあと思った。

 当時の様子を金本節子先生によると「終戦の年の六月ころからこんな田舎にも空襲が始まり、サイレンが鳴ると学校の傍のくぼせき川に添った木陰で、息をころして敵機が去ってゆくのをじっと待つ日々で、まったく勉強どころではありませんでした」

 初夏のある日、奥羽山脈のかなたでズシンズシンと地響きすることがあった。そのころ鉄道省に配属されていた姉がきており、岩手県の釜石あたりが艦砲射撃を受けているのではないかという。奥羽山脈を超して、ここまで響くのかと驚いた。釜石には製鉄工場があるにせよ、いよいよ東北地方も攻撃されるのかと思った。東京では軍事施設が攻撃されると聞いていた。でも民家も爆撃された。
 しかしながらこの村に爆弾が落ちることはないと確信していた。少数の農家や田畑に爆弾を落としても無意味だからだ。だからこの村に敵が攻めてくるときは、日本の都市は壊滅し、日本が消滅するときだ。サイパン島玉砕が脳裏を過った。

 東京が壊滅した昭和二十年三月九日夜半から十日未明にかけての空襲では、父は軍事工場、長女は東京駅、次女は川に向かって逃げまどい、釣り舟に乗せてもらって助かった。川の水は温かかったが、それでもひっきりなしに浴びていたと言う。

 東京の川辺はコンクリートの断崖である。明け方空襲が治まって気がつくと川には無数の破片や死体が浮いていた。舟から地上にでると、荒涼とした景色が目に入った。すべては焼きつくされ、炎や煙りがあちこちにあった。破裂した水道管から水が吹き出している。性別もわからない死体が無数に散乱していた。

 しばらく呆然として家の方向に向かった。ときおり遠くに人影が見えた。正気でなかったに違いない、十四才の女子学生が一人でこうした状況をさまよう様子は想像を絶する。

 家のあった場所に帰った。防火用水のドラムカンに「東京駅にいる安心せよ」なにかの破片で書かれてあった。姉とわかって安堵して東京駅に向かった。東京駅は前夜の空襲で混乱し、列車の運行や互いに安否を確認する人々で溢れていた。そうした状況にもかかわらず、親切に探してくれた駅員さんのお陰で再会することができた。
 父が心配だが消息を得る手立てはなく生死も不明だ。またしても今度は二人で家のあった場所に向かうことになる、それしか手段がなかった。ところが、なんと途中で父とばったり出会ったのだ。まさに劇的であったと話していた。

 そのころ父と姉は東京と秋田を行き来していたので状況がよくわかった。古賀か栗橋あたりで列車が艦載機の機銃攻撃を受けたという。戦闘機は爆撃機の護衛にあたるが、もはや迎え撃つ日本の戦闘機はない。したがって攻撃に転じたのだ。兵士の顔がわかるくらい近くを飛んだと言う。
 その後も空襲で東京は壊滅し、敗戦を確信したのか家族全員が秋田に移住する準備を進めていたようであった。
 
 昭和二十年(一九四五年)八月十五日は夏休みのとくに暑い日で、セミの音だけが印象的であった。この日なにかがありそうな噂があった。とてつもない威力の爆弾が投下されたようなことを聞いていたので、なんとなく無気味であった。
 午後になって数人が大声で「負けた!負けた!」と叫んできた。疎開した地域では電気はむろんラジオはなかったから、役場で玉音放送を聞いた人たちが帰ってきたのだ。放送を聞いた後、誰かがラジオをたたき壊したように聞いた。ただしこれは、後に新聞かラジオで聞いたのかもしれない。

 私はなんの感慨もなかった。こうして疎開してきたことで、戦争は不利と認識していたから結果は予測できた。けれども考えたくはなかった。ただ「負けたら皆殺しになる」なら、そのまえに裏の川に入って死のうかと思った。でもそんな心配は無用であった、周囲の大人にはまったくそんな気配はなかったのだ。

 けれどもこんな話があった。終戦時に自殺すべく橋の上に母子が大勢集まった。子どもを川へ投げ込んでから母親が飛び込むのだ。寸前に誰かが止めるよう呼び掛けがあって助かった。当人は当時五歳で、母親に連れられて橋にいたことをよく覚えているという。

 こうした情況は全国いたるところにあったのだと思う。実際自殺した人がいたし、そうした徴候が各地にあったという。グァムかサイパン島で婦女子が崖の上から飛び下りる米軍撮影の映像があるが、捕虜になるくらいなら自決したのだ。
 夏休みが終わって校庭で遊んでいるとジープがやってきた。普段なら珍しいと皆そこに集まるのに誰も近寄らない。私も遠くから見ていた。ジープには四人ほど乗っていたが、アメリカ人らしい兵隊は二人くらいのようであった。そして役場に入って行った。
 
 当時助教員であった金本節子先生(現姓・高貝)は述べている。「戦後間もなくして教科書の墨塗りがはじまった。戦争、兵隊、必勝などなど、とにかく戦争に関する言葉を徹底的に消し去らねばいけなかった」
 その後配付された教科書は「粗悪な藁半紙に印刷しただけで製本されてなく、生徒がめいめいに折ってナイフで切り、ボール紙などで表紙を作った」と同窓生の高橋玲子さん(現姓・武田)が追想している。

 終戦後も東京にいた父と姉たちが、頻繁に行き来していた。とくに長女は鉄道省勤務であったから都合がよかったようだ。私へのお土産は本や文具、玩具だ。野球のボールも手作りした時代だから嬉しかった。荒涼とした東京の様子を聞くにつけ、先行きはまったく不明だ。あの戦時下で、こうして生きているのが不思議だとも言っていた。
 東京から封書が届くと、開封した箇所をセロハンで封をしてあった。駐留軍は内容を検閲していたのだ。東京に引き上げてから数年後に、セロハンテープであることがわかった。

 父が東京から発電機を持ってきて、地元の車大工さんが水車を作って発電した。水車のベルトが外れてよく停電したが、この地域の数軒に電気が灯った最初かもしれない。
 父は機械の設計技師であったが、蒸気機関の免許証を見たことがある。関東大震災では一週間ほど前から精密機器の測定が不安定で、計るたびに数値が合わないので不可解だった。また長崎の造船所では戦艦「日向」の建造に携わっていたと聞いていた。戦後の混乱期には東京と秋田を行き来していたが、秋田では松根油や石鹸などを生産したり鍛冶屋のような仕事もしていた。状況からして、さぞかし乏しい道具と材料を工夫して補っていたのだと思う。
 田畑があるわけでなし農業はできない。けれども松根油や石鹸などの需要があって作ったのだろう。「芸は身を助ける」というが、まことにその通りだと思う。

 農家の裏側(東向き)は杉の大木で囲まれており、日当たりはなく湿っぽい。そこを手の平よりも大きな鬼ヤンマがゆったりと決まったコースを何度も往復飛行している。尾が黄色と黒の縞模様で無気味な感じもする。普通のトンボが機敏な戦闘機なら、こちらは爆撃機のようで飛び方まで似ている。折り返し地点に立っていると顔の直前を過り、羽音や匂いまで伝わってくる。威容な姿は顔を背けるほどの迫力だ。
 早朝に見られたトンボの羽化は綺麗でした。高橋玲子さん(現姓・武田)

 秋になると果樹が豊富だ。柿、梨、スモモ、栗、林檎などなど。それらは貰ったり落ちているのを拾うことしかできなかったが、二年目ころから木登りを覚えた。木登りは人生の縮図といっていいくらいの試練と教訓を与えてくれた。

 景色も大きく変容する。寒さも急に増してくる。田んぼの稲は黄金色に変わって風になびいている。山は斑に紅葉で染まり、夏には緑色だった栗のイガは茶色にかわった。お米も野菜も栗も、なにからなにまで、どのようにしてできるのかを知ることができた。
 それは、その環境で生活するだけで十分であった。いろいろ教えてもらったが、さらに自然が教えてくれたのだ。昨今なにからなにまで知識として、鶏の脚は二本と教えなければならない滑稽な時代になってしまった。教えられるのではなく、体験的に自ら学ばなければならないことがよくわかる。

 同居した農家ではご夫妻が働いていたから、母が食事の手伝いや赤ちゃんの子守などのお世話をしていた。いつも「えんちこ」に入れられていたので、また泣いたりすると見ていられないといって子守をしていた。後年口癖のように、農家のご夫妻は「茂は母さんに育ててもらった」と言っていた。

 稲刈りは田植えと同様に農作業の大きな節目だ。収穫だから当然だ。ここまでくるには日夜努力の連続だ。土壌作りから灌漑、天候の心配をしたり害虫や除草、常に見回る配慮などなど。

 土壌がよくなければよい作物は育たない。人間も同じだ。それを一番よくわかっているのは、学者や政治家ではなく農民なのだ。昨今教育問題が多々あるが、これは社会・家庭・学校という土壌がよくないからだ。あらゆる物事は、現場をおろそかにして書類だけで判断してはいけないことがよくわかる。

 お米がどのようにしてできるのか、まったく無知であったから興味津々であった。これまで段階的に見てきて稲刈りまではわかった。これからどのようにして一粒々のお米を取り出すのだろう。謎解きがはじまるようであった。

 日に当てるのは乾かすと心得ていたから、稲を稲架に掛けるのもそうだと思った。けれどもそれだけではなく、十分にお日さまの光を含ませるのだという。このようにしないとお米がおいしくないそうで、ここでも自然の恵みを存分に受けていたのだ。

 赤味を帯びた夕日が稲架を染める前に立つと、揺らぐような歪な影絵となって現れた。無造作にいろんな格好をして見ると、シルエットが刻々と変化する。それは自分の心を見ているようで妙な気分になった。両手を大きく広げると大きな存在に見えるのは、勇気が、希望がわくような気分であった。自然の恵みは情念も豊かにしてくれた。
 脱穀精米??
menu