昭和二十年一月。長信田村上斎内の農家に同居して間もなく【長信田国民学校】に転校した。二年生の三学期であった。お世話になった農家はご夫妻と子どもが二人だ。一つ年少の少年がいて、一緒に登校してくれた。
少年はサンペーと呼ばれる藁でできた長靴だが私はゴム長だ、藁靴がよく見えて欲しかったが仕方がない。たぶん地元に同化したい願望があったのだろう。ゴム長は滑るといって縄でぐるぐる巻いてくれた。歩き出すと雪が付着して重くなり、かえって滑るようになった。それは藁靴も同じであった。
少年は枯枝を拾って雪をつついて落としてくれた。それ以来長い枝を拾って持ち歩くようになった。それで雪面に絵を描いたり叩いたり、一本の枝が腕の延長となり、また用心の杖にもなってとても役に立った。それは、あたかも人類がはじめて棒を道具としたかのようであった。そうだ、私はここで原始人から出発したのだ。
雪面に小便をすると黄色く染まるのが面白かった。そこで絵を描くようにするが風が強いと被服にかかり、風下に向けないといけないこともわかった。ところで被服にかかっても、それが汚いといった感情はなかった。これは無神経ではなく、やはり原始人だったのだ。
学校への道程はおよそ一時間くらいだろうか。雪路は滑ったり窪みに足を取られたりして普通に歩くことはできない。それに路といっても一面雪だから、溝になっていればましで、朝は人の足跡があればよいほうだ。視界は広いのに雪が深く、歩けるところは限られている。また寒いのにときには汗がでるほどで、強風では鼻水が頬を伝わる。晴れの日はめったになく、毎日が吹雪きだったように思う。ただひたすらに転ばないように、安全に歩くのみであった。
東京では歩行の足下にそれほど気を使うことはなかったが、ここでは安全に行動するために体力と神経を集中していた。それは自分の意思というよりも、情況がそのように仕向けてくれたのだ。しかもこうした厳しさに不満はなく、環境に順応するしかなかったし、困難に挑む意気込みがあった。それが体や精神を鍛えてくれたのだ。
転校した長信田国民学校では、同学年が二学級で「竹組」と「松組」だ。私は竹組に配属された。東京では一組、二組…であったから変っていると思った。
初めて登校する日に、学校で履く真新しい運動靴を持たされたが履くことが出来なかった。なぜなら、みんなは藁草履か足袋、あるいは裸足の子さえいた。履物はかなりひどく傷んで汚れていたから運動靴は目立ってしまう。十歳に満たない学童でもこうした感情があったのだ。そこで私は靴下のままで、凍るような冷たさであったが耐えることができた。
帰宅して、袋から取り出した運動靴が汚れていないのを見て、どうして履かなかったのかと母に聞かれた。事情を話して「みんなにわるいような気がした」と言ったことを覚えている。その後運動靴をわざと汚してから履いた。これはいい考えだと思った。
言葉遣いや服装が違ったせいか、珍しいものを見られているようで馴染めなかった。言葉は会話にならず、一言もわからないこともしばしばであった。自分のことを「オラ」と呼ぶのは覚えたがその先がわからない。つい「ボクは…」と言ってしまう。
一挙一動に笑われたり、なぶられたりしたのだろうが、なにを言われたのか理解できないのが幸いしたかもしれない。けれども好ましくないことは察しがついた。しかも相手は常に数人だ。それだけでも嫌味が迫る。
それは休み時間だけだから、避けるために教科書や帳面を開くようにした。勉強したい気持はさらさらないが、そうするより仕方がなかった。こうしていても気を引こうとする気配が漂い、無関心を装っていても小突く生徒がいる。けれどもそれ以上に手を出すわけでもないから、さほど恐くはないが極めて不快だった。
そもそもこうした生徒たちの奇怪な言動が空虚で不可解だった。私をあざけり笑うなら、私はそれ以上に相手を嘲笑した。軽蔑でもしないと気がすまなかった。ともあれ地元の子から見れば、変人に映ったのかもしれない。そんなことから積極的に近づく気持ちも余裕もなかった。それにこうした生徒と話をしたいことはなにもなかった。
机は二人掛けで、隣席の女生徒は服装や雰囲気からして、私と同じく疎開してきたようであった。これは高貝徳子先生の配慮だと思った。その生徒はいつも下を向いて避けるように行動していた。たぶん私と同じ心境だったのだろう。
先生は「サンボギの本多さんですか」と聞かれたので、知り合いなのかと思い親しみを感じた。一言がこれほどにも感情を変えてくれたのだ。ところで三本扇の家の姓は知らなかったが、先生から聞かれて本多なのかと思った。
すべてが別世界であった、途方もない大雪、学校までの距離、木造校舎、言葉、などなど。被服は着物で洋服は数人。頬は赤く顔つきが違うように見えた。
先生は、これからは標準語教育の方針なので、言葉遣いを東京と同じように話してくださいと言われた。けれども、たぶん一年くらいですっかり地元の言葉に慣れてしまったように思う。自然にそうなるのだから、環境に順応する本能は偉大だ。
当時の様子を金本節子先生(現姓・高貝)が述べている。
「十七才七ヶ月で助教員。セーラー服で教壇に立った。昭和二十年に入ると疎開児童が続々と増え、教室は六十九名に膨れ上がった。廊下に出るにもひと苦労で、机の上を歩くのを叱ることも出来なかった」
また同窓生の服部和子さん(現姓・五十嵐)は
「雪路では安達悟郎先生の足跡を頼りにしながら登校した」
親鳥に続くヒナのようである。行動が身にしみて思い 出に残るのは、いかに口先よりも雄弁かがよくわかる。
安達悟郎先生は戦時特例の代用教員で十五・六歳であった。
教室の窓側には雪が細長く積っていることがある。風が強いと窓の隙間から吹き込むのでそれだと思った。そんなときは窓側にいると、筒状のストーブがあるが外とあまり変らないようであった。
ストーブの周りには棚があり、そこにお昼のおにぎりを並べておく。履物は藁靴だから、下の方に並べて乾燥させる。おにぎりが暖まってくると香りがただよい、お腹が催促するようであった。大きなヤカンや藁靴から湯気が立ち登り、異様な景色であったが珍しさに感嘆していた。そんなこんなで、寒さにもかかわらずとても暖かい雰囲気であった。友達はいなくても、ひとりで境地に浸っていたのだ。
校舎は木造の二階建で、村では唯一大きな建物のようだ。周辺には役場と郵便局、そして数軒の民家や商店が軒を連ね、村の中心的存在のようであった。
軒下にはツララが列をなして垂れ下がっているが、それは剣のようであった。そんなことから真下を通るのは危険を感じた。出入り口など通路に下がったツララは棒で叩いて落としているのを見た。また軒下は雪が走るといって危険だと聞いた。一晩に三尺も積ることもあって景色が一変するのに驚いた。
すべてが人手によるから、路が雪で覆われても多少除雪できるのは出入口くらいだ。農家は幹線道路に面していないから、そこまではカンジキやフミダラと呼ばれる俵のような形のものを履いて雪を踏んで路をつける。幹線道路といえども、人が歩いて路がつくのを待つしかなく、最初に歩く人は難儀だ。
樹木の枝は雪の重みで大きく垂れ下がり、雪がドサッと落ちると枝が跳ね返り、その反動でさらに雪が舞う。あたかも雪を振払っているかのようだ。
雪下ろしの手伝いは面白く、作業をする喜びがあった。大人の仕事を見たり教えてもらいながら、自分なりにシャベルや大きなヘラを使う技術や加減がわかってくる。むろんこうした経験は初めてだし、なにからなにまで興味津々であったから、手伝いを依頼されたことはなくても積極的に手伝った。というよりもさせて貰ったのだ。それは好奇心からなんでも経験をしたかったからだ。
雪下ろしがすむと、あるいは途中でも滑ったり飛び降りるのが面白かった。雪の深さや固さを見極めながら、より高いところから飛降りた。変化のある行動自体に興奮し、より困難を極める行動に挑んだ。これは面白くて止められない。行動自体がなぜこうも面白いのか、それは人間本来の姿ではあるまいか。経験を積めばどうということはないが、未経験は新鮮で自分との戦いだ。だから面白いのだ。
二十代の一時期登山に熱中した。このとき雪下ろしと、その後夢中になった木登りが脳裏をかすめたことがある。群馬県谷川岳の岩場でやむなく雪面に飛降りた。万一のことを考え痕跡が残るように、体に結んだザイルをさらに二重にしてハーケンに通し、もう一方を腕に巻付けた。たるんだザイルがハーケンを通過するときの摩擦によって、落ちる速度が少しでも緩やかになると考えたからだ。これには縄を利用した多様な木登りが活きていた。
雪中に潜ってしまったが無事軟着陸し、さらにザイルは多大な効用があった。これが雪中から脱出するのに役立ったのだ。
昼間の疲れで夜は早くに寝る、心身ともに疲れ果てるのだろう。そんな具合だから夜景を見ることはめったにない。外灯があるわけでなし、夜は暗闇といっていいくらいだった。あるとき月明かりがとても綺麗だと母に呼ばれた。雪面がキラキラして、これまで見たことのない景色であった。今なら、たぶん通俗的だが幻想的とでも表現するのだろうか。
家に入ると、昔の人は雪明かりや螢の光で勉強したと母が言う。たぶんランプが暗いことの不満をもらしていたのだろう。螢の季節になると思い出し、たくさん捕らえて試してみた。けれどもマッチの炎よりもはるかに暗く、とても本を読める明るさではない。さらに螢は異様な臭いがした。それにしてもお尻から光りを発するのは不思議であった。
満天の星空を見たのもはじめてだ。空にこれほどたくさんの星があるとは驚きであった。そのせいか中学生のころ宇宙の神秘に魅せられ、自然科学者になりたと思ったことがある。でもそんな希望的観測は狂ってしまった。血の気が多いというのか、興味の対象があまりにも多く、それは今でも変わらない。
同居させていただいた農家はとてつもなく大きくて、見上げる屋根は小山のようだ。抱きかかえるくらい太い八角の柱もあった。壁は板でできており家中黒光りしている。漆喰の壁はなくすべてが木材だ。部屋数はいくつあるのかわからないし、大きな囲炉裏のある茶の間は学校の教室よりも大きいくらいだ。茶の間は板敷きで囲炉裏の周りだけゴザが敷いてある。ここで食事と団欒にふけるが、必ずといってよいほど手仕事しながらだ。
囲炉裏は煮炊きや暖をとるだけではなく、じつに有効に活用する。焼いたり、湧かしたり、あるいは照明の役割さえした。さらに上方には火棚と呼ばれる格子の棚があり、濡れた衣類や履物を乾燥する。火棚は上にものを乗せるのであるが、釣り下げることもできる。火を囲むように彎曲した大きな五徳でおにぎりや魚を焼く。灰に埋めて芋や栗を焼いたり、石を暖めて湯たんぽの代わりにしたり、知恵の限りをつくし、あらゆる用途に利用するのである。
現代の住宅は便利だから、こうした思考を伴う環境ではない。不便は人に知恵を授けてくれ、人間を育ててくれるのが本当によくわかる。さらに体をよく使うから健康にもよい。
身近に火を扱うのもはじめてだったし、燃す木によって燃え具合や音が異なり、炎も煙もそれに連れて変化することもわかった。
さらにかまどがいくつかあり、かつては相当の人数を賄ったらしい。かまどでは藁や木や枝、枯葉など、燃してよいものはなんでも利用して煮炊きする。こうした当り前のことが、ガスしか知らない私には驚異であった。すべてが原始的だからか、具体的で理解できたのだ。理解できれば見る目や疑問、探究心も旺盛になる。これはあらゆる対象に有効だから、教育もここから出発したほうがいい。
ミンジャと呼ばれる台所は水屋の訛なのだろう。ここもとても広く清流が絶間ない。裏の川から引いた水路がそのまま生活用水であった。水路はコの字型の樋か太い丸太の半分をくり抜いた半円の樋だ。食器類を水路に放り込んでおけば、自然に洗われるから自動食器洗機というわけだ。
下流は池で鯉がいる。流された残飯などは餌になるから合理的だ。もちろん洗剤などはないから公害とは無縁だ。夏にはスイカもトマトも冷たい水でよく冷えるから冷蔵庫も不要だ。昨今水利を含め、これほどぜいたくな台所が存在するだろうか。化学物質で汚染された現状では不可能だ。
農家の裏側に幅二間くらいの川があり、当初は流れの音が気になった。けれどもいつのまにか気に留めなくなったから慣れは不思議だ。
近所の田んぼで「かまくら」という夜祭りがあるといって連れてゆかれた。雪が積った田んぼは、踏み固めると広場のようになる。間伐材の丸太に藁の束を括り付け、それに火を付ける一種の火祭りなのだろう。周辺は雪だから火を扱うには好都合だ。
「かまくら」は「テンピツ」ともいったようで、その意味はわからなかったが、夜空に燃え上がる炎を見ていると空襲を思出した。呆然としたような気分になってその場を離れた。
見るものすべてが珍しく興味がつきない。毎日が新鮮な驚きの連続であった。地元の人には当り前のことが私にはそうではなかった。そんなものがどうして?といった感じでよく笑われた。その笑いは嫌味がなく爽快だった。だから知らないことは躊躇することなく、なんでも聞くことができた。言葉は早口のようで理解できなかったが、少しは慣れてきた。