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 昭和二十年代。奥羽本線で山形県を通過すると、広大な平野に整備された田園風景が続く。疎開した長信田村は山麓であったから、そのような田園地帯ではなく、野原や森林、川など自然の変化が無限にあり、田畑以外は人手が入らない自然であった。
 こうした長信田村は自然の恵みを最大限に受けており、生活はそれで成立ったと言っても過言ではない。また農耕は創造の原点と言われるが、振返ってみると、まことにその通りだと思う。

●仕事
 農家の仕事はいったいどれくらいあるのだろうか、数えたらキリがない。それらすべては経験と感でこなす。専門職なら一般的にそれだけであるが、農家の場合はじつに多種多様だ。しかもそうした仕事は具体的で子どもにも理解できた。ここには抽象の世界は皆無だ。


 現代の企業社会においては一般的に大人の仕事を見ることはできないが、それは農家と対極にある。父親の仕事を知らない子どもがたくさんいるし、ときとして奥方もそうである。知っていても肩書き程度である。実際に毎日「なにをしているか」が重要なのだ。子どもにとって親や大人の仕事を見ることができるのは、成長過程に影響すること多大だ。人生の決め手といっていいくらいだ。

 農耕には多種多様な作業がある。土壌の整備、運搬、肥料の生産、灌漑、植付け、除草、見回り、家畜の世話、薪など燃料の調達。わらじ、むしろ、縄など生活用具の手作り、案山子、味噌作り、保存食の生産、大工、交際。
 さらに主婦は農耕作業の傍ら、料理、出産、育児、教育、味噌や保存食作り、などなど生活に関する一切を賄うのだ。

 「百姓するしか能がない」と言う人がいたがとんでもないことだ。あまりにも万能職人なのであって、一業種に集中すれば並外れた技術を発揮すること請合いだ。

 しかしながら閉鎖的な人がいることを感じた。進歩的というよりは退廃的であった。他人の噂はいいとしても悪口が多いし、それを楽しんでいるかのようだ。そして時代の息吹きに否定的であった。迷信を信じる人も多かった。これではなにもはじまらない。なにも大きなことを望むのではない。身近な些細なことからはじまるのだ。じつはこれ、現代の日本とたいして変わりのないことに気付く。

 疎開した地域では戦後二年くらいは電気もなく、むろんテレビも電話も車もない。だからこそ生きる原点を見ることができたのだ。それは外界と断絶しても当面支障がないことをも意味する。すべての作業は人手によるから効率はよくない。けれども不便は創意工夫を促し人を利口にする。便利はその逆だ。

 農耕作業は野外だけではない。したがって農家は作業場を備えている。住居としての部屋の他、ニワと呼ばれる作業場と、マヤと呼ばれる厩(うまや)が続いている。当時は有機農業であるから、家畜や人の排泄物も藁や草などと混ぜて堆肥にする。それらは春先にソリで田んぼに運ばれる。

 昭和五十五年(一九八〇)に訪ねたときは、この町(疎開当時の長信田村と隣接する横沢村が合併して太田町になった)に馬は一頭もいなくなったという。化学肥料、農薬、農業機械が農業を大きく変えたのだ。そして土壌は化学物質で汚染され川の水も飲めなくなった。近代農業は水から土壌まで変えてしまったのだ。そして人の心をも。
 作業は楽になったがカネがかかるようになった。

 かつての農作物には葉や茎に害虫から防御する抵抗力があったという。
 あらゆる生物は外的要因がある。そこに抵抗力が働くのだが希薄になった。
医学の進歩は健康維持や生命を救ったが、反動もある。むろん空気や水、食料も原因だ。効率を優先すれば反動を免れない。

 蚕を育てる農家もあった。繭から絹糸が取れることも、どのようにして糸にするかも知ることができた。すべては手作業で、その知恵にはただ々感心するのみであった。

●子どもの手伝い
 農家の仕事は無限といっていい。人手はいくらでも欲しい。子どもも手伝いをする。手伝いから得るものははかり知れない。自主的に手伝えば楽しくもあり集中するから持続する。嫌々ならすぐに飽きるし持続性はなくなる。

●食事
 農村は食材の生産が主な仕事だから自家調達だ。米と野菜はむろん家畜や川魚もいる。買わなければならないのは海産物くらいだ。
 食卓はちゃぶだいではなく個人々のお膳であった。そして位置関係は厳格に決まっており旧家ほど顕著だ。囲炉裏も上座下座といった具合に座席が決まっている。お嫁さんは常に末端だ。ここで身分や家長制度という習慣を知った、封建的なようであるが、こうした制度が長年農家を支えてきたのだろう。

 囲炉裏は暖をとるだけではなく、煮たり焼いたり、あるいは照明の役割さえした。さらに上方には格子の棚があって濡れた衣類や履物を乾燥する。灰で石を暖めて湯たんぽの代わりにしたり、知恵の限りをつくしてあらゆる用途に利用するのである。現代の住宅は便利だからこうした思考を伴う環境がない。楽は堕落の手助けをする。
 長い棒で下から俵をつつくと、籾がらと一緒にイモがドドドドッと降ってきた。埃などというなまやさしいものではない。頭からもろにかぶるのだ。爆笑するおおらかさが天真爛漫であった。灰で焼いたイモはじつにうまかった。

●寸法の概念
 農家では日常会話に寸法や目方の単位が頻繁にでてくる。何でも屋といっていいくらいの作業をするから当然だ。だからそうした概念は自然に身に付いてしまった。とくに長さは自分の体を基準にして計るのである。大雑把ではあるが定規が不要なところが凄い。繩の長さは両手に持って広げて何尺、あるいは手のひらと肘を軸にして輪に束ねるのだが、その回数で長さを計っている。親指と中指をいっぱいに広げて何寸。指や関節も含めて体を物差にする。

●昼寝
 昨今の農民は知らないが当時は早朝から仕事に精出し昼寝をする。むろん蒲団に入るのではなく、作業衣のままその場で寝る。これはじつに気持ちがいい。
 職業いかんにかかわらず、早寝早起きと昼寝は理にかなっている。
 現代はおおむね夜型で、とくにサラリーマンは慢性的に寝不足だから昼寝をしたらいいと思う。これはじつに健康的で能率も向上する。でもこうした制度ができると益々夜型になるだろう。当初の目的から逸脱するのが現代社会の特徴だ。

●藁細工
 農家では多くの日用品を手作りするが、その材料には藁が多く用いられる。縄、むしろ、俵、ぞうり、わらじ、雪靴、蓑、えんちこ、藁布団(マットレス)、小屋の屋根材などなど。さらに焚付に用いたり灰は肥料にもなる。その利用はまったく無駄がなく見事であった。

 加工の容易さと稲作の副産物である藁ほど多方面に利用できる材料はなかったのではないか。しかも材料である藁を加工するのに道具は不要といってもいいくらいだ。つまり全身が道具なのだ。腕、手、指、脚、足、そして口も道具や支持具になるのだ。あえて道具といえば藁を切るために、稲や草刈りで使う鎌が手元に置いてあるくらいだ。
 さらに体の部分々が物差にもなっている。これほど巧妙に全身を使った作業があるだろうか。筵のように大きな織物は機織を簡単にしたような機具であった。かようにかつての農民は万能職人でもあったのだ。しかも工芸品に達する見事な出来映えもあった。

 農家の「にわ」と呼ばれる屋内の作業場には大きな枕のような石があり、それがどこの農家にもあるのでなにかと思った。藁はそのままでは硬くて細工に適さない。それでこの石の上で、束ねた藁を筒状の木槌で叩いて柔らかくする。石も木槌も周辺で調達するがお金は一切無用だ。それにしても石が凹んでいるのには驚いた。雨垂れで石に穴が開くというが、目の当たりにして愕然としたものだ。

 私は見るものすべてに興味があり、手伝いながら教えてもらった。自分でやってみたかった。藁を打つと手に響いて痛いことがある、それは木槌が直接下の石を打つからだということがわかった。理屈を理解するほどに面白かった。
 繩綯いや草履を編むのも習った。草履や下駄の鼻緒、また要所にはみご繩を用いる。さらに布の端切れを混ぜるとより丈夫になって色も華やかになる。こうした手作業では手付があることもわかった。上手に作る人は素早く、手付きがいいから見ているだけで気持ちがよかった。
 敗戦後しばらくして農家には「縄綯い機械」が入った。動力は足で踏み、これは能率がよいが手で綯うほど丈夫ではないと言っていた。私が見てもたしかに締まりがゆるく、引っぱると伸びてしまう。

 家族といっても母と二人きりのことが多かったし、農業をしていたのではないから仕事があるわけでもない。そんなわけか手伝う仕事がなかったし、ましてや強要された記憶はほとんどない。けれども農家の子どもたちは手伝うのが日常であった。そうしたところへ遊びに行って手伝ったが、遊びと手伝いの区別はなく、すべてが遊びのように楽しかった。

 それは興味があったからだと思う。自分でやってみたいのは興味を持つか否かだ。しぶしぶ手伝わされるのは興味がないからだ。農家の子どもは日常的だから興味がなくなってしまう。私はすべてが興味の対象であったから率先して手伝った。というよりも作業をしてみたかったのだ。だから苦になるどころかおもしろかった。それと他人にできて自分ができないのは情けないことでもあった。できるかぎり大きく重い薪を運べるのは痛快で、仕事が終わると成し遂げた喜びがあった。

●馬の思い出
 農耕には馬が欠かせない。それは力仕事だけではなく、馬糞も肥料として利用するからまったく無駄がない。現代は機械と化学肥料がとってかわり馬はいないという。農業に工業が入り込んだのだ。そして労働は楽になったが金がかかるようになった。
 思いだすのは農作業の後に馬を川で洗って、馬の背に揺られながら気持ちよさそうに歌っている青年がいた。なんとのどかな景色だろう、カラオケとは比較にならない贅沢である。現代の日本で日常こうした贅沢ができるだろうか。

 たぶんその青年だったと思うが馬に乗せてもらったことがある。鞍もたずなもない裸馬というやつだ。脚で馬の腹を挟んでたてがみに掴まるようにいわれたが、それどころではない。十歳ころだから脚が腹にとどかないし股が裂けそうなくらい痛かった。落ちそうで首に抱き着く。草を食べようとして口を地面に近付けると逆さになった。馬が顔を上げると後ろに倒れるかと思った。気がつくと腕と脚で馬の首に抱き着いていた。さぞかし滑稽な姿だったろう。
 馬の周囲には絶えずアブが飛交っているが、人の頭にもブヨが飛交っているのはおかしかった。しかも歩いているのについてくるから養っているかのようだ。
背後と腹の下をくぐってはならない。

●農家

 戦後の農地改革によって小作人は自分の土地になった。それまで小作人は収穫の半分を地主に納めていたという。貧富の差はこうしてできたのかと思った。

 農業は一家総出で作業する。当然だが家族は同居している。現代のように核家族というようなことはなかった。そして最年長の跡継ぎが家長として君臨している。
 こうした制度は絆が強いが欠点もある。跡継ぎだけが大事にされ、次男以下は放任される場合が多い。
 かつて仕事を手伝っていただいた人に、山形出身の技術者がいた。中学卒業後集団就職に出され、苦労の末専門家になったのだが、実家の跡継ぎが事故で亡くなった。すると帰省して跡を継げという。親は子を自由に操れると心得ているのだ。
 むろんそれを全面的に否定はしない。けれども家を出されてから、現在までの対応は聞くに耐えないものであった。彼は帰省しなかった。反抗もさることながら、苦労の末取得した職業に生き甲斐があるからだ。

 娘は嫁に出すが、それを「片付く」という。モノではあるまいしと思ったことを覚えている。盛大に嫁入りさせる農家もあるが、女性の地位は低かった。嫁は働き手であり、姑と敵対関係にあるのが宿命だ。
 そんな具合だから嫁虐めは茶飯事だ。嫁にきてから誉められたことがないという女性がいた。非情な話も幾度となくあった。なにかにつけて「おなごは」をよく耳にした。とくに学校へやると、ろくなことがないというのには唖然とした。

 ところで「片付く」だが、後に正式な日本語で、全国的な言い方であることがわかった。だから現代でも通用しているのだ。これは江戸言葉ではないかと思う。かの時代は人間の綾を探究し、粋な計らいもあった。三百年も平穏な時代だし、現代よりも人間的であったように思う。女性を蔑視することなく、むしろ女性が牛耳っていたのではないかと思われるフシがある。そうした意味からすれば、片付くは余裕のある表現なのだろうか。

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