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 幼児の記憶は何才くらいまでさかのぼることができるのだろうか。大阪にある叔父の家に行ったとき、おぼろげながら消防自動車のオモチャで遊んだ記憶がある。また浪花節をニャブヤシとしか発音できなくて笑われた。聞くところによると四才ころであったから、これが最も古い記憶のようだ。

 その後は断片的だが比較的よく覚えている。戦争の気配が濃くなりつつあるのも、子供心にもよくわかった。これらは大人の会話やラジオをはじめ、絵本や歌などにも強く影響していた。シンガポール陥落による堤灯行列や、花電車を肩車で見たのが思いだされる。
 三国同盟ではドイツ、ベルリン、イタリアなどを知った。紀元ニ千六百年と東京都の歌は歌詞も旋律も記憶している。

 昭和十六年十二月八日、この日付は誕生日の次ぎに記憶された。真珠湾攻撃の映画を見た。航空母艦から次々に発進する飛行機、手を振って見送る兵士、強風にたなびく旭日旗。満員の映画館はたぶん三階席の隅だったのだろう、下の方に小さく映っていたが、真珠湾炎上の場面は、実際に自分が飛行機に乗って見ているかのようだった。
 世は増々戦争の話題一色であった。絵をよく描いて遊んだが、飛行機、軍艦、戦車などで、そこには必ず旭日旗があった。

 各戸の前にコンクリートやドラムカンなどの防火用水があって、ボウフラが底から揺れながら上がってくるのがおもしろかった。独特の格好をしたゴミ箱も各戸の前にあった。フナを釣りに行った記憶があるから、その頃は東京の川にも魚がいたのだ。

 マンガは『冒険ダン吉』『のらくろ』『フクチャン』などが記憶にある。冒険ダン吉によると、南洋では毎日バナナが食べられるので、南洋へ行きたいと思ったことがある。当時バナナは体の具合がわるくなると買ってくれたので、よくそんなフリをした。貴重で高価な時代にはありがたがるのに、安くていつでも食べられるようになると、あまり見向きもしないのはどうしたことだろう。

 遊びはチャンバラ、かくれんぼ、メンコやケン玉、あやとり、それにベーゴマや竹馬などなど。お正月にはカルタ、羽つき、凧上げ、福笑い、にらめっこ、などなど。遊びはすべて体を使い、なぞなぞや尻取りのように知恵も働くようになっていた。数人のお姉さんたちが一斉に飛び交う縄跳びは見事であった。私も入れてもらったが失敗ばかりして歩調を乱し、嫌われたのを覚えている。私が近付くと「あーっ!ノブオちゃんだ!。ダメダメー」とみんなで叫ぶ。それがまた面白かった。またたくさんのお手玉を自由に操るのは手品のようであった。

 カタカナは入学以前にカルタで覚えた。遊びながら自然に覚えたのだ。ここは重要で、記憶だけが目的なら苦痛であっただろう。戦後はひらがなが先だが、当時はカタカナであった。
 また手回しの映写機があって、それで月形半平太とかエノケンなどを映し、弁士のまねごとをして遊んだりした。回し方によって、画面の動きが早くなったり遅くなったりするのが愉快で、何度も繰り返して遊んだ。とくに剣劇は大笑いであった。

 しかしなんといっても心に残るのは歌である。唱歌や童謡も好きであったが、レコードの歌の方がさらに好きだった。蓄音機の大きな蓋を開けて、そこにちょこんと入るのだ。そして腕を思い切り伸ばすと、ゼンマイのハンドルを回すことができた。ところがハンドルがよく外れるので、そのたびに蓋から降りなければならない。何度も繰り返すうち、どのような回し方をすれば外れないか、こうした手加減も身に付いた。
 こうして毎日のように何時間でも飽きずにレコードと一緒に歌っていた。歌詞の意味もわからずに歌っていたのだ。年齢のわりには昔の歌を知っているのはそのせいだ。近所のおばさんに「ラジオかと思ったらノブオちゃんだったのー」とよく誉められた。
 昨今ではナツメロになるが、軍歌もたくさんあった。軍歌は勇ましくて元気がでるようだった。歌手は東海林太郎の名前しか知らなかったが、女性と男性が交互に歌い、最後に合唱するのがとくに印象深い。

 落語か漫才のレコードで「今帰ったよ…」ではじまるのがあった。その言い方が独特で面白く、何度も聞くうちに影響されてしまった。そのうち私が帰宅して玄関の戸を開けるなり、家の中から「今帰ったよ…」と先を超されるようになった。
 サーカスやお化け屋敷もよく覚えている。サーカスでは『天然の美』のメロディーとともに、呼び込みの声がいつもあった。お化け屋敷は独特の匂いがしたが、これが植物であることは秋田に疎開してわかった。
 こうした見世物小屋の雰囲気は独特だが、戦後の東京では見られなくなった。見世物は江戸時代から隆盛を極めたそうだが、現代ではテレビがこれに変わったようだ。人の興味はいつの時代も変わらない。

 そのころは外国映画が禁止されていたから見ることはできない。けれどもチャップリンの名は知っていた。大人の会話を耳にしていたのだろう。
 またレコード以外の歌では「ルーズーベルトとチャーチルが」とか「出てこいニミッツマッカーサー」。「トントントンカラリト隣組…」。「お使いーは、自転車ーで…」。
 お手玉では「いちれつらんぱん破裂して、日露戦争はじまった…」
 登校するときは「今日も学校へ行けるのは、兵隊さんのおかげです。お国のために、お国のために戦った兵隊さんのおかげです」といった具合で、替え歌もあった。
 「じいさん酒飲んで酔っぱらって死んじゃった…」は、世相のなにかを反映していたのだろうか。

 歌や映画や絵本では勇敢な兵士と愛国心をたたえていた。戦国時代から日清戦争、日露戦争など勝利の場面で彩られ、お国のために命を捧げることを賛美していた。肉弾三勇士は悲惨ではなく勇敢なのであった。戦闘機の燃料が切れて、兵士は自分の血で飛んだという話もあった。これは戦地へ物資を送ろうという士気を高めるためだったのだろうか。慰問袋や意味はわからなかったが千人針が思い出される。

 「ぜいたくは敵」といった標語もあった。国民が一丸となって勝利という目標に向かったのだ。むろん戦争に反対する人がいたとは知るよしもなかった。
 昭和十八年四月に【茅場国民学校】に入学した。早く大きくなって勇敢な兵隊さんになるのが夢だったから嬉しかった。帽子が大き過ぎて締まりがなかったが、頭がすぐに大きくなるからといわれ、納得させられたのをよく覚えている。

 学校では整列など規律が厳しく、特に体操の時間は毎日で厳しかった。体を鍛え百年戦争に備えるのだ。通学路でも学童が数人寄れば隊列を組んで規律正しく歩いた。常に毅然としていなければならなかった。兵隊さんのようで大人になってゆくような感じがした。またいつまでも自分の思い通りにはならないと思った。子ども心に揺れ動き、強制されていることを実感していたのだ。

 当時外食することはあまりなかったが、須田町食堂で水団を食べた記憶がある。食料事情がわるくなって、食券が配給されたころだと思う。千葉県や埼玉県などの農村地帯へ買出しに行く話も聞かれるようになった。公園や学校の屋上も畑になった。

 そして出征兵士を見送る場面が見られるようになった。赤紙(徴兵令状)という言葉もよく聞いた。坊主刈りにして、家族や友人などが寄せ書きした日の丸をたすきがけにして「バンザーイ、バンザーイ」と叫んで戦地へ送り出すのだ。御国のために命を捧げることを讃美していたし、生きて帰ることは恥であった。私の兄もこうして見送った。
 戦争の記録映画を見るにつけ、目頭が熱くなるのはこうした出征情況を幾度となく見ているからだ。記録映画の画面では戦闘機や軍艦しか映らなくても、そこには、あの出征場面がオーバーラップされるからだ。

 兄は横須賀の武山海兵団に所属していたので面会に同行したことがある。そのとき、たしか「水兵さん」という映画を見た。手旗信号もイ・ロ・ハ・ニくらい教わったが学校でもこうした授業があった。当時は菓子類も店先から消えていたが、これらをたくさん貰ったのが印象に残っている。そんなわけか海軍はいいなあと思った。

 三笠艦では艦内を走り回り、昇り降りするのが楽しく、冒険心をかきたてられた。斜線で印した箇所があちこちにあり、これは日露戦争の日本海海戦で爆弾が落ちたところだと聞いた。日露戦争は絵本や歌でもよく知っていたから、子ども心にも特別な感情があったようだ。
 2002年10月25日に三笠艦を訪ねた。20代のころ仕事の帰りに迂回して寄ったことがあるが、今回はくまなく艦内を巡回した。慰問にきた昭和19年頃や当時の世相がよみがえり寂しい気分だった。艦橋に立って主砲を見下ろして「軍艦行進曲」を心の中で歌うが、いつのまにか「海ゆかば」に変わっていた。70 代という方に話しかけられたが、その方も感慨深く寂しげだ。外国の青年男女が何組か見学しているのが印象的だった。日本は平和だ。
 全景写真は艦内に展示してあった大正15年から昭和20年までの三笠艦。 

 そのころの望みは、大人になったら兵隊さんになることで、やはり海軍がいいと思った。けれども泳げなかったので、三笠艦から見た海が目に浮かび、そんな心配をしたのをよく覚えている。その帰りか別の日かは不明だが、鎌倉の大仏様の中に入った。それからほぼ五十年後に、同じ場所に立ったときは感無量であった。


 防空演習が行われるようになり、たびたび避難訓練した。消火訓練もあちこちで見られるようになった。防空頭巾にモンペ姿のご婦人が一列に並んでバケツを手渡している。それを持ってハシゴを登るのと、屋根の上で水をかけるのは数人の男性だ。遠くから見ているとジョウロでかけているようだった。

 昭和十九年ころより空襲警報のサイレンと共に避難が頻繁になった。演習ではなく本物になったのだ。当時茅場国民学校二年生であったが、空襲警報が日に日に増して、授業の記憶はほとんどない。そのころから、綿の入った防空頭巾を背負っているようになった。

 爆撃機 の爆音がするたびに死の恐怖が迫る日々であった。飛行機が真上に来たときに落とした爆弾は、飛行機のはるか前方に落ちることを聞いていたので、爆音が聞こえてきたときが一番怖かった。
 姉は口癖のように「爆弾が落ちれば何処にいたって同じさ」といっていた。避難場所には落ちない保証はないから気休めのようでもあった。

 外出先で避難したのは、日比谷公園で近所の子どもたちと木の実を拾ったりして遊んでいたときだ。警報で戸惑い、路往く大勢の流れに合流した。そこでビルの地下に逃げ込んだから内幸町あたりなのだろう。ドングリという名をこのとき知ったのが鮮明だ。

 いつのころからか「神風が吹く」と聞かれるようになった。動物園の猛獣が殺されたと聞いたとき、ライオンや虎たちの顔が目に浮かび可哀想で仕方がなかった。戦況が悪化していることは、さまざまな状況から子どもにもわかった。さらに東京が空襲されるようになり、不安がつのる一方であった。

 あらゆる物資が不足していたから、家庭のお風呂などおよびもつかない。また現在のようには普及していなかった。公衆浴場も配給された券で週に一回か二回くらい利用できる程度だったと思う。しかも燃料が不足していたからお湯はたいへんぬるい。そこでどうしたかというと、誰からともなく号令がかかり、浴槽でいっせいに起立するのだ。そしていっせいにしゃがむ。入浴はこの繰り返しであった。このようにすると、ぬるま湯でもしゃがんだときは温かさを感じるのだ。滑稽に思うかもしれないが、燈火管制の薄暗い浴場は幻影のようであった。

 「うちのお父さんは空襲になると、よく便所に入ります」綴方からスパイが逮捕された。通信機が出てきたのだろう。そうしたことからか、学校では綴方を書かせるようになったという噂があったが、茅場国民学校では記憶にない。

 姉は学生であったが、アメリカの国力からして勝てるとは思えなかった。と戦後になって言う。当時はなぜ言えなかったか、それは私が口外する恐れがあるからだ。綴方のように子どもの言動から家族に疑いがかかり、国家を批判することは非国民として処罰された。そうしたことから言論の自由も抹殺される時代であった。また憲兵は恐いと聞いていたが、近所の知人一家のお兄さんが憲兵をしており、私も知っていたせいかそうは思えなかった。

 空爆による延焼を防ぐために家並があちこち壊された。戦車も出動していたが破壊する威力を見た。壊された家の後には防空壕が作られ、幾度かそこに避難した。学校の避難場所は地下室だった。家の地下壕には瀬戸物をはじめ、家財道具を入れて土を被せて埋めた。ラジオや新聞によると戦局は有利のようだが、こうした状況で戦争に勝てるのだろうか。不安な日々が続いた。
 昭和十九年(一九四四年)十一月二十九日の夜は、これまでにない大空襲であった。
 広い道路の向いは家並が壊され、土を盛ったトーチカのような防空壕が並んでいる。母と私はいつものようにそこに避難した、父と姉二人はそれぞれの職場にいたようだ。
 空襲警報のサイレンを打消すかのように、激しい爆音はB29の大編隊が想像できた。またたく間に、おびただしい焼夷弾の炸裂は火の雨となって降りそそぐ。点々と火の手があがり、やがて広がり一つになった。大火災で夜空は赤く染まり、探照灯の光が左右に揺れる夜空は明るいほどであった。さらに風が強くなり、音までがこの状況を加速するようだった。火の手は遠方のようだが、これまでにない規模で間近に迫る感じがした。
 炎に包まれた飛行機が落ちてくる。大きな翼だけがジグザグに揺れながら落ちてくるのはB29なのかと思った。空襲でなければ、たぶんキレイだったかも知れない。
 私は防空壕に入ったり出たりしながら見つめていた。見通しのよい道路の遠方では、大火災を背に人々が影絵のように右往左往している。間もなく大勢の人影がこちらに向ってくるようだ。どうやらこちらが安全地帯らしく、人の群れは増える一方だ。
 やがて火災が近付くようで防空壕に入るように促された。けれども腹ばいに半身を乗出し様子を伺った。防空壕に入ってしまうと煙でやられることを聞いていたので、またすぐ逃げ出せるようにしていた。
 暴風のような風と煙、さらに轟音とで人々の叫びがかき消される。私は煙で息苦しく、爆発音のたびに顔を伏せ、断続的に顔が焼けるような熱風を浴びながら、あとどのくらい生きていられるのか、恐怖に震えながら意識が遠のいた。
 突然顔に冷たさが走り、背中が圧迫され一瞬どきりとした。かすかに「ノブオー」と聞こえ母とわかった。これまで聞いたことのない悲哀に満ちていた。振向こうとしたが顔に濡れた手拭いを押付けられ、被いかぶさったのだ。もはや絶体絶命から観念し、一瞬でも私を救うための守りだったのだろうか。息苦しさと、母とは思えないほど強い力で押付けられ、必死に踏ん張った。これまで泣いた記憶はないが、このときはじめて泣いた。とめどなく涙があふれ闇雲に泣けた。
 体がこわれるような痛さで目がさめた。幸い戦火を免れ家にいた。なにかを聞こうとしたが声がでなかった。母は泥だらけで倒れており、近寄るとかすかにうめき声が聞こえた。なにをどうしてよいかわからなかった。水道で手拭いを絞り、今度は私が母の顔を拭いた。二階の窓を開けると異様な焦げた匂いと煙が遠くに漂っていた。昨夜の空襲は遠方のようであったが、被害は間近に迫っていた。外に出ようとすると、腹ばいに近付いた母に足首を掴まれた。出てはいけないという意味がわかった。母も声が出なかったのだ。

 当時学童は、三年生以上が集団疎開をした。一・二年生は田舎に親戚など縁故があれば、そちらに疎開するように通達されていた。ラジオから「太郎は父のふるさとへ、花子は母のふるさとへ」といった曲が流れ、「戦地の便り」という番組のテーマ曲は軍歌ではなかったようで、これもよく覚えていた。
 けれども私は疎開する気にはならなかった。一、二年ほど前に、たぶん田舎の親戚に行ったことがある。夜になると外は真っ暗で動物の鳴き声が気味わるく、とても寂しくて怖かった記憶があるからだ。
 照明は電気ではなく、とても薄暗いランプであった。その油も不足していたから、ランプを灯すのは食事のときくらいで、あとは囲炉裏の火が頼りだ。ランプと囲炉裏の明りは薄暗いだけではなく、人の影が壁や障子に大きく映り、しかも揺らぐのだからなんとも無気味であった。
 そうした経験から田舎に疎開は絶対に嫌だと言い張っていたが、二十九日の空襲でやむなく説得に応じなければならなかった。そこで母と二人で秋田県へ疎開することになったのだ。記録によると十二月八日であったから、開戦からちょうど三年であった。
 兄は海軍、父は軍事工場、二人の姉は学生であったが女子挺身隊に動員され、長女は鉄道省で東海道線や横須賀線の車掌、次女は軍に送る食品工場であった。兵器工場ではなかったのがせめてもの救いであった。

 後年聞くところによると、疎開先の候補は名古屋と新潟もあったが、いずれも都市部で危険なため秋田にしたという。実際近所の一家が富山県に疎開して、東京よりも先に爆撃を受けて死亡したと聞いていた。

秋田へ

 昭和十九年十二月八日は四番目に記憶した日付けだ。その夜の上野駅は列車を待つ人たちで超満員であった。持てるかぎりの荷物を持ち、東京を脱出する人たちで連日こうだったのだろう。改札口を通過すると、いっせいに列車めがけて長いホームを走るのだ。母と手をつないで走ったのをよく覚えている。
 母と私は車内に入ることはできたが、入り口付近の通路がせいいっぱいであった。荷物を確認すると、たすきがけにしていたカバンがなかった。ヒモが引きちぎられていたのだ。これには当時貴重だった菓子類が入っていた。軍の食品工場にいた姉が、疎開する日のために溜めておいてくれたのだった。
 このときから、私はあらゆるものが丈夫で信頼できることを念頭においている。
 車内は人と荷物でごったがえしていた。列車の網棚に私よりも小さな子どもを乗せた人がいた。私も網棚に乗れたらいいなと思っていたら、周りで口論がはじまり激しい喧嘩のようになった。やがて子どもを降ろすと争うように荷物が乗った。
 山形で降りるという方が、その先の席を確保してくれたそうだが、それにしても山形までは十時間以上かかる。それでもこうした状況ではありがたい親切であった。
 発車してまもなく、私は通路に置いた荷物に腰掛け、母によりかかった。もちろん母は立っていた。たぶん深夜だったのだろう、すぐに眠ってしまったようだ。

 寒さで目が覚めると座席におり、山形を過ぎたと思った。車内は上野駅を出発したときほど混雑してはいなかったが、それでも通路には人が立っていた。黒い毛布のようなものを羽織っており上野駅で乗った人ではないと思った。上野駅では話声がたくさんあったが、ここはとても静かだった。みんな元気がなく疲れきったように見えた。気味がわるいような、なにかほっとしたようでもあった。
 列車はゴトゴトといった感じで、とてもゆっくり走っているようだった。駅でもないのにしばしば停車する。時折汽笛が聞こえるが、はるか彼方からのようで、なぜか寂し気であった。それが東京から遠退いてゆくように思えた。
 窓のガラスは曇っていて外は見えない。異様に明るい窓の外を見ようとして、恐る恐るガラスをそっと拭いてみたがとても冷たかった。
 なにがなんだかわからなかった。たいへんなところへ来てしまったと思った。吹雪が横に走り、かすんで見える景色は真っ白で、ときおり民家や木立がぽつんと見える。雪景色を初めて見たのだが、それがどういうものかはまったく未知であった。引き返そうと思ったが空襲を思い出した。そのころでも天秤にかけていたのだ。
 それからは窓の外を眺めていたが、延々と同じ景色が続いていた。まれに民家らしきが数軒見えるが人影はない。人の姿が見えないのはなぜだろうと思った。列車の窓は凍りついており、走りが頼りなく思えたのは吹雪のせいだと考えた。蒸気機関車は精一杯がんばっているようだが、音からして苦しそうで生き絶えるのではないかと思った。

 奥羽本線の大曲駅で下車して旅館で一泊した。翌朝、帳場から戻った母が最近出たというお札を笑いながら見せてくれた。五銭と十銭であったがまるでオモチャのようだ。母の話から物資の欠乏が子ども心にもよくわかった。
 しばらくして親戚の人が旅館に迎えにきてくれた。外は猛吹雪で、風に吹き倒されそうだった。ソリに駅留めと持参した荷物を乗せ、私はその上にはいつくばるように乗せられた。振り落とされないように必死で荷物にしがみついた。顔を上げても吹雪のため景色は見えない。ここは列車の窓から見えた景色の中にいるのだと思った。
 母は後ろについているようで、ときおり私の背中や足に手が触れるのがわかる。振向きたいが身動きできず、ソリを引く人の足下しか見えない。
 そのうち厳しい寒さで体が硬直したようになり、しかし気分はとても楽で意識はもうろうとしてきた。ソリで雪がきしむ音が子守歌のようで、今でも情況が鮮明によみがえる。
 夢心地のさなか突然ほうりだされた。ソリが転倒したのだ。路肩から下へ転がったときにはもう駄目かと思った。あっけなく助けられたのだが命拾いしたようだった。
 こうして横沢村のサンボギと呼ばれるところに着いた。サンボギ?って聞いたら三本扇と教えてくれた。その地名からして三本の扇が立っているのかと思った。
 そこで絵本で見ていたナスノヨイチを連想した。以前来たときは別の家だったのだろうか。そこでは鎧や兜、槍などを見たことがあったと思う。これらはメンコや絵本の武者絵で馴染みだったので興味がつきなかった。けれども実物はとても大きくて怖かったような記憶がある。
 それも金属類の供出でなくなっていた。東京では鍋や釜の供出があったが、ここも同じであった。戦車や軍艦を作るために鉄が要ることはわかるが、ここにきて絶望的な気分になった。子どもにもこのくらいの感情はあった。

 布団は分厚く重かった。風は絶間なく吹き荒れ、ときおり頬にも伝わるが爆風よりも安心と思った。東京はどうなっているのだろうか、二日前の今頃は上野駅にいた。そんな思いが巡るうちに眠ってしまった。
 翌朝、家の人にいろいろ話しかけられたが意味がわからなかった。家の奥さんと思われる人は、とてもにこにこして優しく話かけてくれるが、意味がわからないので返答のしようがなくて困った。無意味に笑うのも変だと思った。母はわかるらしく、まるで通訳だ。
 私よりも一つ年長の少年がいて、買い物に同行するようにいわれた。慣れさせるためであることは容易に推測できた。
 はじめて雪路を歩いたが、着地するたびに滑るのでとても歩きにくかった。少年は店で「買うー」と言った。これはよくわかり、同時にこのように言うのかと思った。

 横沢村には何日くらい滞在したのだろうか、さらに山に向かった長信田村の上斎内というところにきた。ここは奥羽山脈の麓だと母は言う。横沢村では付近に学校や民家があったが、ここは見通しがよく遠くに何軒か見えるだけだ。
 ここで昭和二十年一月に長信田国民学校に転校した。二年生の三学期であった。