道具と創造性
鉛筆
 文房具の代表は鉛筆でしょう。今では質もたいへんよくなりましたが、わたしの小学生のころは舌で濡らさないと書けませんでした。紙や消しゴムも、当時はすべて質がよくなかったのです。
 昭和三十年代に作図をするようになりました。戦後十年を経ても、こうした仕事で満足できる鉛筆は少なかったのです。いろいろ試した結果、ドイツ製のカステルが一番でした。以来一貫して、わたしはそれを使っています。
 現在では、どれをとっても差はないと思います。しかしあの濃い緑色に塗られたカステルは、長年使っているせいか愛着があり、他の鉛筆を使うのは許されないような、妙な感じがします。たかだか鉛筆のことでそんな神経を使うことはないのですが、「自分は保守的なのかなぁ」なんて思ったりもします。
 1971年、ニュールンベルグのホテルに投宿したおり、部屋のテーブルに手帳用の小さな鉛筆をはさんだ挨拶文がありました。「ようこそニュールンベルグへ。カステルは当地で生産されています。旅のお供にこの鉛筆をお役立てください」云々とあるのです。懐かしいような感慨をもって拝見しました。そして鉛筆をレギュラーサイズではなく、旅行者にとって便利な小型にした心遣いも嬉しい限りでした。こんなわけで、ますます親しみがわきます。
 鉛筆を使うのに「上手下手もないだろう」と言う方がおられます。ほとんどの人がそう思うかもしれませんが、そうではないのです。
 鉛筆は作文のみならず、図や絵を描くことができます。目的によって使い方が違うのです。違えなければならないのです。これは芯の硬さ加減だけではありません。文字を書くとき、絵を描くとき、塗るとき、線を引くとき、などなど手加減がみんな違うのです。違うといっても、見た目に大きく変わるわけではありません。ほんのわずかな、いわばコツというのでしょうか。こうした使い方によって鉛筆が生きるのです。
 このように言えば、「専門職ではあるまいし」と反論されるかもしれません。この程度で専門職とは思いませんが、少なくとも小学生の間、毎日どのような鉛筆の使い方をしてきたか、あるいは教えてきたかを問いたいのです。使い方どころか、持ち方さえまともにできない子どもが、いや、大人もいるのですから。
 昨今鉛筆を使う方が少ないようです。ボールペンやシャープペンシルは削る手間がいりません。もちろん何を使おうと勝手ですが、ご自身で鉛筆を削って使う習慣もいいのではないでしょうか。
 鉛筆を削って書く。日常的な、当たり前のことが、なんと素晴しい行為でしょう。こう考えるボクはどこかおかしいかな。
 Macintosh Plusやワープロを使うようになって、鉛筆を使う機会が少なくなった。
 鉛筆が主力のころは、短くなった鉛筆がたくさん溜ってくる。こうなると通常の鉛筆立てでは沈んでしまうので、フイルムの空き箱を利用した。
 これは長さに応じて、また仕切りが適度にできてとても具合がよかった。セロハンテープで連結すると、安定よく移動にも便利だ。
 短くなった鉛筆は、ホルダーを継ぎ足して極限まで使うこともあった。それが限度に達すると写真下のようになり、爽やかな充実感があった。

 無駄なくとか、省エネといった意識はまったくなくても、心地よい満足感はそういうもんだ。
鉛筆を削りながら

 思考するには集中することも重要だが、環境を変えるとか適度に体を使うのも効果的である。散歩がてらといったことがよく言われるが、その時々でさまざまだ。
 三十年ほど前、内山真理恵さんという青山学院の学生がアルバイトで私の事務所に来ていた。三年生の半ばころだったと思うが、四年生になると毎日来られるという。
 その当時でもアルバイトや遊びやらで、あまり学校に行かない学生がたくさんいたので、そこを質した。すると「単位はほとんど取得したので、水曜日に一時限だけ行けばいいんです。昼休みの時間をそれにあてていいでしょうか」という。私は大雑把なほうだし、感心な子だと思ったので「一時間が二時間でもいいから、ゆっくり行ってきなさい」と言った。けれども彼女は走って往復し、食事もパンなどを買ってきて五分か十分ですませていた。仕事中は気の毒なくらい神経を使う生真面目な学生であった。
 日常はあれこれせわしないのだが、あるときゆっくりと小刀で鉛筆を削っていた。五本か六本まとめて削るので、かなり時間がかかると見えたのだ。なかば同情ぎみに「あのぉ、私が高校のときに使った鉛筆削機があるので、あした持ってきましょうか」と言う。
 あぁ、この人は鉛筆削機も買えずに、こうして時間をかけて自分で削っているのかな。こう思われたに違いない。そこで私は「いや、削機を買えないわけじゃないけど、あれは嫌いだし、それよりもこれまで書いてきた内容を検討しながら、次にどう書くかを考えたり、また休息の意味もあって、こうしてゆっくり削っているんだよ」
 削りながらこう言って彼女に顔を向けると、けげんそうな表情で私を見つめていた。まったく意味がわからなかったのだ。
 私にとって小刀で鉛筆を削る時間というのは、それが書きはじめであろうと、途中でも、あるいは書き終わった時点でも、それぞれに充実した時間なのだ。なぜなら緩やかに思考できるからだ。だから急いで削るようなことはしないし、もっと削る鉛筆がないかと探すくらいだ。

 卒業しても就職先がないので、見つかるまでアルバイトを続けたいと言う。それから半年くらい後に銀座の広告代理店に就職した。そして半年くらい後にお土産を持って見えた。
 彼女は事務所で勉強したことが職場でとても役立っていることを、さまざまな具体例で報告してくれた。広告代理店なので、企画・デザイン・写真・文案などなど、みんなが私に意見を聞きにくると笑っていた。それは適格な意見を述べることができたからだ。
 そして最後に鉛筆削りのこと「なんとなくわかるようになりました」と言う。忘れがたいほど印象にあったようだ。私はなにも言わずに笑って答えた。彼女も照れ臭そうに笑っていた。
 実行するとき目的は一つである。けれども思考は集中したからといって効果的とは限らない。関係ないことをしているときに浮かんだり、思いつくことがよくある。夢に見ることもある。
 そうした意味で、枕元にメモを用意するのもいい。目が覚めるとすっかり忘れていることがあるからだ。メモは頭脳の記憶装置を補ってくれるから、常に用意しておくといい。