グラフレックス社のスピードグラフィックは一世を風靡したカメラだ。戦後も十年くらいは報道カメラマンの証のごとくでもあった。その後35ミリカメラの性能が向上し、製版技術の向上と共に大判の必要性がなくなり次第に姿を消した。
高度成長と共に広報や宣伝の需要が高まり、デザイナーやカメラマンといった職業が飛躍的に台頭した。そしてこの分野では大判サイズが要求された。
けれども大型カメラは、年収をはるかに上回る高価な外国製しかなかったから、比較的安価な中古のスピグラが重宝されるようになった。社会人となって間もなく、嘱託をしていた日本工房
*にも3台の4×5と1台の2×3があったが、酷使されて信頼性に欠けていた。
条件のよい撮影現場はめったにないが、造船所をはじめ各種工場、建設現場、空撮などであったからカメラにとっても厳しい状況にあった。しかも不特定のカメラマンが使い、整備も不十分で光線漏れやピンボケすることもあった。そんな具合だからまれに予備に持ち出すくらいで、スピグラの印象はあまりよくはなかった。
しかしながら、高度成長を成し遂げたのは、終戦を境に苦難の時代を生き抜いた人々であったように、スピグラも同時代に活躍したのである。
そんなわけかいつかは手にしたいカメラであった。なぜなら暗箱に近代装備を施し、しかも手作り風で、カメラの基本原理を彷佛していたからである。そうした思いをパソコン通信時代によく書いた。けれども市場のスピグラは酷使されたものしかなかった。
2003年7月2日、ニコンクールピックスをRawモードにバージョンアップに行く途中、銀座の「カツミ堂写真機店」の前を通りかかりなんとなく覗いた。なんとそこには新品のような美しいスピグラ23があるではないか。重量とフイルムの経済性から23は理想的だ。
早速十数年来のカメラ仲間であり、長年のスピグラ愛好家である
久保隆雄氏に相談し、帰りに買ってしまった。二十代のころ新しいカメラを手にしたときの喜びが蘇った。
その晩は、かつてスピグラの代理店であった「美すず商会」時代に購入したグラフライトを取り付けたりして深夜まで楽しんだ。カメラでこれほどワクワクしたのは何年ぶりだろうか。