1965年4月16日
テヒニカが夕方届くという連絡に「ジャンジャンいじくりまわそう」と冗談まじりに、写真家の薗部澄先生他数名が待機していた。なかなか到着しないので少しいらだったが楽しい雑談で時が過ぎた。「遅くなってすいません」夜になってやっと届いた。二重にした大きな手さげ袋二つにみんなの目線が走った。一つ一つ慎重にテーブルに乗せてゆくのを一同ジィーッと見つめている。「これで全部です」と言ったとき、溜息まじりに一瞬シーンとなった。「おーっ、車の方が量あるぞ」薗部先生が笑って言う。わたしは苦笑いともなんともつかない表情になったような気がした。フィルターなどのアクセサリーも純正でないと気がすまないので費用もかかりますが、こうした趣味はどうしようもない。
テヒニカの初仕事は青函連絡船の撮影となった。あえてテヒニカを持ち出す必要はないがとにかく早く使いたかった。一式携えて4月26日の夜行で出発した。撮影には不測の事態にそなえ、必ず予備のカメラを持参する習慣だ。このときはスピグラを加えた。そして薗部先生のご好意で助手の山崎隆君が同行してくれた。主な取材は、函館山を背景にして、出港する連絡船を撮影するのだが。「現在山には残雪があるがPR誌"R"の7月号に掲載するので、雪が入ってはならない」というまことに無茶な要望だ。
21日の午後に函館着。函館機関区に挨拶してロケハン。その後市内を巡り函館山より市街の夜景を撮影。
22日。連絡船内の貨車の出入りを、屋根の上から撮影していたら、山崎君がなにやらゴソゴソやっている。「本多さん向こう見てください」三脚にスピグラが乗ってセルフタイマーが鳴っている。
八甲田丸を地上から撮影。幸い函館山には雲がかかり、合間に見える残雪は雲と見間違うようでした。そして遠景なのでアウトフォーカスでごまかすことができた。松前丸の出港はランチで待機して海上から撮影。その後、フルスピードで追いながら撮影するが、水しぶきが気になる。なにしろ真新しいテヒニカだ。けれどもスピグラに変える暇がない。
23日。八甲田丸の入港、および出港をランチで海上から撮影。以上で必要な写真はすべて撮影できたので、大沼公園へ足を延ばし、由緒ある湖月館に宿泊する。
24日。八甲田丸で船内を撮影しながら青森へ。初めて船内の風呂に入る。
スーパーテヒニカ4x5Vは7年間よく働き、また多くの楽しみや喜びを与えてくれた。けれども去る時が来た。山岳関係の取材をしている武藤昭氏が、どうしても譲って欲しいという。