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 私はオヤ(親)と呼ばれている。この家に出入りして半年ほどして子供を産んだので、オヤが名前になってしまった。
 五年前私たちは、お母さんに連れられてあちらこちらさまよい歩いたあげく、この家の縁の下へもぐりこんだ。私は生後半年くらいで、弟と妹は二ヶ月くらいだったと思う。お腹はすくし、妹は病気だったので、これ以上みんなで歩き回ることはできなかった。ここへ来てからは、お母さんだけが餌を探しに外出し、私たちは縁の下でじっと帰りを待っていた。ときどき大きな猫がやって来ては私たちをいじめるので、とてもこわかった。ある日、妹は顔をかみつかれて、逃げる力もなくなってしまった。お母さんはとても強かったけれども、ときには追い払われてしまうこともあった。
 住みついて一週間ほどすると、床板が上げられて人の顔がのぞいた。驚いた私たちは、ちりぢりになって逃げた。お母さんはものすごい勢いで怒った。それからたびたび床板が開き、おいしいごちそうが降ろされるようになった。それを食べて私たちはとても元気になった。
 冬が近づいて寒くなると、人の気配を察しながらも、私たちは家のなかへそっと入って寒さをしのぐようになった。私たちが家のなかへ入りはじめると、今度はごちそうが廊下に置かれるようになった。そしてこの頃から、人が私たちを慣れさせようと、様々な工夫をこらしはじめた。しかし私たちが逃げ回るので、しまいにはあきらめてしまった。そのうちこちらも人が危害を加えないのがわかったので、手を出さないかぎり逃げないようになった。でもお母さんは、人の姿を見ただけで逃げ出してしまう。
 そうこうしているうちに、私たちは二階に安全な場所を見つけた。扉がなく、人の住んでいない部屋があったのである。不思議なことに、そこにもごちそうがちゃんと置いてある。まれに人が入ってくることもあるが、私たちがいても知らん顔をしてすぐに出ていってしまう。しかしいつまでもそんなうまい具合にはゆかなかった。人がそこに住みはじめたのである。でも私たちは、自分の部屋よといわんばかりに、出ていこうとはしなかった。人のほうも無関心をよそおっていた。
 お母さんは相変わらず外出が多い、というより、私たちの部屋にはときたましか顔を出さなかったが、あるときからぷっつりと姿を見せなくなってしまった。それからしばらくして、独立心の旺盛な弟も姿を消した。取り残された私は、お母さんと弟が無性に恋しかったけれど、家にすっかり慣れてしまったので出る気はなかった。ただ人には今でも慣れようとはしない。

 翌年の春、私は赤ちゃんを産んだ。階段の天井近くにダンボール箱が置かれ、ご丁寧にいにそこへ行く足場までつくってあった。しかし私がそこに入ると、人が可愛い子供たちをうばおうとしはじめた。私は人が近づくと、もうれつな勢いで怒った。私は気が気でなかった。食事と水は箱のそばにあったので探しに出る必要はなかったが、用足しにはどうしても箱を離れなければならない。あるとき急いで戻ってくると、なんと人が子供たちの入った箱を降ろそうとして、頭の上にかかげているではないか。私はかみつかんばかりに怒ったので、あわてて元に戻したけれど、まったく油断もすきもあったものではない。
左2枚のどちらかがオヤの母猫と思われる。/ 家の様子をうかがう私たち3匹。/ 弟が慎重に餌に向かう、私は後ろで安全を確かめる。
 ひと月もすると、子供たちは箱から出ようとするようになった。最初人が近づくと私のまねをしてハーパッと怒っていたが、無邪気な子供たちはじきにだまされてなついてしまった。
 子供たちが幼いときは、人だけでなくよそ猫にも注意しなければならない。信じられないことだけれど、一度など可愛い坊やがかみ殺されて、悲嘆にくれたこともあった。なにしろ、この家は出入りが自由すぎるのだ。それにいつでも餌が置いてあるから、よそ猫まで食べにくる。
 育児は人との防戦でくたくたに疲れていた虚をつかれて、とうとう可愛いさかりの子供たちはよそへ貰われていってしまった。私は普段あまり鳴くことはないけれども、このときばかりは悲痛な声で子供たちを捜しまわった。子供たちはたとえ貰われていかなくても、いずれは私から独立してゆく運命にあるが、いざいなくなると、子供たちとの平和だった日々がせつなく思い出されてくる。

 いつだったか避妊手術をするとかで、私は捕らえられそうになったことがあった。かごのなかにとびきりおいしそうなごちそうが入れてある。かごの外から注意ぶかく手を伸ばして取ろうとしても届かない。そのうち息子のヒデが来て食べてしまった。そんなことをくりかえしているうちに、私もかごのなかに入るようになった。むろん、常に警戒だけはおこたらず、餌をくわえたら急いで外に出ることにしていた。しかし、なにごとも起こらないのでそんなに急ぐ必要もあるまいと思ったら、ある日、突然ふたがしまってしまった。そして、人が近づいてきた。私は猛烈にあばれた。あまりのすさまじさに、人のほうがびっくりしてしまい、これでは医者につれて行けないといって、ふたを開いてくれた。今では人もあきらめているようだ。
 ヒデは私の最初の子である。じれったいほど動作が鈍く、性格ものんびりしいる。たぶんネズミが目の前を通っても安全ではないかと思う。だからといってなにもしないわけではなく、よそ猫を追い払うのはいつでもヒデの役目である。ちん入者の鳴き声がしたり、気配を察しただけでも、のそのそと出ていく。だからヒデの体には傷がたえない。そのうえ外出が多くていつも汚れているので、わが子ながらドラ猫といった感じである。ヒデは、ワーンとかワーオとかいった鳴き方をする。人に慣れてはいるが、甘えるようなことはしない。しかし家の人にだまされて去勢されてからは、心なしか外出が少なくなり、毛並みもきれいになったようだ。
 ヒデは私や甥のチンの体をよくなめる。私は気持ちがよいのでじっとしているが、チンはしばらくするといやがり、それでもヒデがしつこくなめるので、しまいにはよくケンカになる。
 チンはこの家に一緒に来て病気で死んだ私の妹・チビの忘れ形見である。ヒデとは逆にすばしっこくて、ネズミをよく捕らえてくる。猫づきあいがいいとでもいうのか、よそ猫にも平気で近づき、相手におどされてもキョトンとしている。ヒデがケンカをしていても高みの見物をきめこむ。それでもときたま傷があるところを見ると、まったくケンカをしないわけでもないようだ。家の人にはよく甘えているが、見知らぬ人間が近づくとすぐ逃げる。食欲が旺盛で、私やヒデに分まで食べてしまう。そのうえに食べるものにも大変ぜいたくである。
 チンはかん高い声で、アーンと鳴く。人に呼ばれると返事をしたり、なかなかのお世辞屋だ。だからいつでも一番得をする。私の子供が産まれるとおもちゃ代わりにして遊ぶくせに、子供たちが近づいても気が向かないと離れてしまう気分屋でもある。
 スローモーな用心棒のヒデ、ネズミ取り器の代用でペットにされているチン、人には絶対慣れようとしない私、以上の三匹が、この家に定住している。
オヤの死
 1982年12月10日、オヤは子ねこを生みました。1週間のち、オヤは子ねこに乳を飲ませながら死んでいたのです。子ねこがヨチヨチ歩き出すと、必ずくわえて連れ戻していたのに、鳴いても歩き出してもオヤの気配がしません。不思議に思って懐中電灯で照らしてみると、3匹が乳をふくんでいました。1匹はオヤの前足に抱かれていました。自分の命よりも子ねこを大切にしたオヤ、生まれたばかりの子ねこを残してゆくなんて……。
オヤが最初に生んだヒデ、そしてオヤの妹だろうと思われるチビの子チン。ヒデとチンはじいっとオヤを見つめていました。そしてかわるがわるオヤをなめていました。きっと最後のお別れをしたのでしょう。5匹の子ねこは、まだ目が開いていませんでした。お母さんと思ってか、ヒデの胸元をさぐりますが、ヒデはオスなのでお乳がありません。ヒデにできることは、5匹を順番になめてあげることでした。
 子ねこには大変やさしく、人が近づくともうれつに怒りました。子ねこを守り、人を信じない態度を見るにつけ、オヤを抱けるのは死んだときくらいじゃないかな、と話していたのです。ところが……、それが本当になってしまったのです。
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