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昼近くの横須賀線は空席だらけで、通勤時間帯の超過密が信じられない爽やかさである。そして日差しと揺れが心地よく眠りを誘う。揺れると眠くなるのは脳が揺れるからだそうだ。そういえば赤子はこうして眠らせる。でも赤子の場合は脳が安定していないから、あまり揺すらないほうがいいらしい。
横浜を過ぎたあたりでふと目を開けると、娘さんがぼんやり外を眺めている。次に手鏡を取り出してさまざまな角度から顔を点検整備している。膝の上には薄汚れたノートが開かれていた。なんとはなしにノートに目がゆくと。
椿姫・ヴェルディ/フィガロの結婚・モーツアルト
カルメン・ビゼー/運命・ベートーベン
野原・シューベルト/白鳥の湖・チャイコフスキー
などなど作品名と作家の対比表が記載されている。絵画や彫刻、文学の類もあった。これはたぶん試験対策なのだろう。それにしても一般的によく知られた作品ばかりなので驚いた。
芸術は作品名や作家を記憶するために存在しているのではない。芸術は鑑賞するものなのである。そうすれば作品名と作家名は自然に覚えてしまうのである。けれども学校では、鑑賞する時間がないから、記憶せよと指示するのだろう。
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どうやらこの女子大生らしきは芸術にはまったく関心ないらしい。けれども試験のために記憶しなければならないのだろう。そして合格したとしても、それは単に記憶していたにすぎない。そこにいったいどんな意味があるのだろうか。ナンセンスとはこのことをいう。
この場合にかぎらず、こうした例はたくさんあるのだろう。記憶さえしていれば試験に合格するのである。これで人を計るのだから、この場合の教育とはじつに効率よく、教師は楽なこと無上だ。
学校はまさにオートメ化された工場といっていい。量産するには画一化が最適なのだ。それなら、規格化された知識人ができるかといえば、そうではないところが並の工場よりも劣るのである。
教育の成果は試験によって確定されるから、すべてがそれに集中する。けれどもそれらは、その後の人生にさほど影響していない。影響あるのは青春時代の時間を無駄にしたことだ。いや、就職のためだという反論があろう。就職を否定しているのではない。就職一筋が問題なのだ。それだってままならないのだが。
だからそういう人は、人生のなんたるかを知らない人たちなのである。これは決して極論ではなく、人は「なにをするか」が問題なのである。就職してからも同じである。それには自分の目で見て経験し、判断できる感性を育まなければならない。知識も重要だが感性はさらに重要だ。
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