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春
sketch_memu
 「わーすげー田舎だなー」
 修学旅行生が電車を降りたとたん感嘆しています。北鎌倉駅のホームは一部にしか屋根がありませんし、わずか五段で地面に降りることができます。こんな素晴らしい駅が田舎からきた?修学旅行生には、まるで無人駅のように見えたのでしょう。

 観光客の声は、じつに世相がよくわかる
 「おーっつ!おめーら、ここへ並べ」
 「うわー、センセー話がわかるなー」
 ふと見ると、カメラを構え記念写真を撮る先生と生徒たちであった。
 外国語よりも日本語
 横須賀線車内でカップルの会話。「私翻訳家になりたいの、外語学校どこがいいかしら」
 「外国語もいいけど日本語だよ、日本語でちゃんと文章が書けるかが問題だよ」

 社会は憂鬱?
 「来月から社会人なのね、憂鬱。就職口はないしこのまま学生でいたいわ」
 卒業を間近に控えたらしい数人の女子大生がため息まじりに嘆いている。本来は希望に満ちて羽ばたくはずなのに、これはいったいどういうことだ。就職口がないこともあろうが、これまでの成果を発揮したい欲望がないのだ。というよりも成果もなにもないのだ。ようするにこれまで無意味に遊んできただけなのだろう。
 昼近くの横須賀線は空席だらけで、通勤時間帯の超過密が信じられない爽やかさである。そして日差しと揺れが心地よく眠りを誘う。揺れると眠くなるのは脳が揺れるからだそうだ。そういえば赤子はこうして眠らせる。でも赤子の場合は脳が安定していないから、あまり揺すらないほうがいいらしい。
 横浜を過ぎたあたりでふと目を開けると、娘さんがぼんやり外を眺めている。次に手鏡を取り出してさまざまな角度から顔を点検整備している。膝の上には薄汚れたノートが開かれていた。なんとはなしにノートに目がゆくと。

 椿姫・ヴェルディ/フィガロの結婚・モーツアルト
 カルメン・ビゼー/運命・ベートーベン
 野原・シューベルト/白鳥の湖・チャイコフスキー

 などなど作品名と作家の対比表が記載されている。絵画や彫刻、文学の類もあった。これはたぶん試験対策なのだろう。それにしても一般的によく知られた作品ばかりなので驚いた。
 芸術は作品名や作家を記憶するために存在しているのではない。芸術は鑑賞するものなのである。そうすれば作品名と作家名は自然に覚えてしまうのである。けれども学校では、鑑賞する時間がないから、記憶せよと指示するのだろう。
 どうやらこの女子大生らしきは芸術にはまったく関心ないらしい。けれども試験のために記憶しなければならないのだろう。そして合格したとしても、それは単に記憶していたにすぎない。そこにいったいどんな意味があるのだろうか。ナンセンスとはこのことをいう。
 この場合にかぎらず、こうした例はたくさんあるのだろう。記憶さえしていれば試験に合格するのである。これで人を計るのだから、この場合の教育とはじつに効率よく、教師は楽なこと無上だ。
 学校はまさにオートメ化された工場といっていい。量産するには画一化が最適なのだ。それなら、規格化された知識人ができるかといえば、そうではないところが並の工場よりも劣るのである。
 教育の成果は試験によって確定されるから、すべてがそれに集中する。けれどもそれらは、その後の人生にさほど影響していない。影響あるのは青春時代の時間を無駄にしたことだ。いや、就職のためだという反論があろう。就職を否定しているのではない。就職一筋が問題なのだ。それだってままならないのだが。
 だからそういう人は、人生のなんたるかを知らない人たちなのである。これは決して極論ではなく、人は「なにをするか」が問題なのである。就職してからも同じである。それには自分の目で見て経験し、判断できる感性を育まなければならない。知識も重要だが感性はさらに重要だ。
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