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 木材は節のないのが良品とされている。それは節が抜けてきたり、そこから割れたりして強度的にも美的にも好ましくないからだ。そうしたことから節の部分は切り捨てられることが多い。
 私も切り捨てていたが、それを廃棄することはなかった。締め具の当て木にしたり、工作以外にも役立つことはたくさんあるからだ。
 あるとき材料取りをするので、節目を避けて寸法を計っていたら節が二つならんで、ちょうど両目のように見えた。その部分を切り落としたら顔のようになった。これはおもしろいと思った。
 それ以来、顔になりそうな節を探すようになってしまった。このように工作を進めていると、必ずしも節が二つ並んでいなくても、材料の組合わせによって顔ができることを発見した。手元にそうした材料があると、実際にあれこれ組み合わせてみることができるので具体的だ。これは机上の設計図ではできない作業だ。
 節で目ができたとしても、それだけでは顔にはならない、作品としての構想が要求される。したがって次の作業を進めることになる。それにも端材を有効に活かすことができるので、無駄がないのはもちろんのこと、端材の形をそのまま利用したり、一部形を変えたりして使う。
 左の写真で一目瞭然だ。両端を顔の形に切り落として下に降ろしたら「おさげ」になってしまった。
 目が傾いているので鼻もそのように付けてみた。口もそのような角度に切抜いた。こうした要素によって表情ができてくる。
 首や台座の形はそれなりに、安定も考慮しながら、場合によっては、ちょとした機能を含めることもいい。
 かつて「福笑い」という遊びがあった。それくらい気楽に、楽しみながら作業した方がいいかもしれない。
 木材の節を発端にしてイメージが膨らむ。なにせ端材がアイディアを提供してくれるので、じつに楽しく作業できてしまう。無限に作品ができるのではないかと思うほどだ。実際そうだと思う。
 しかしながら他人から見れば、子どもじみた遊びとしか映らないかもしれない。でもそうではない、思考と創造性に子どもと大人の違いはないのだ。
 常々思うのは、先生が生徒に指導して作品を批評するのではなく、先生も制作するということだ。そして生徒の作品と共に検討するのだ。
 会社では社長はもとより重役から営業・総務・経理・工場・生産現場・広報・企画部、あるいは編集部といった隔たりなく全員が思考するのだ。仕事を分担しているのは便宜上であって、担当の仕事をしていればよいだけではなく、新製品開発などのアイディアは全員が思考すべきなのだ。実際そうした企業が増えている。設備と技術を活かして、これまでとはまったく異なる製品を生み出した企業のホームページを制作をしているが、年々向上している。家族は自然に分担ができているが、それだけに固執しないではないか。
 「あれはダメだ、これはダメだ」と言うのは、そのようにしか見えていないからで、じつはそういう人間がダメなのである。社員旅行で候補地を「あんなとこなにもないとか、くだらない」と言うのも同じである。企業は人材にあるが、その人材が無為無策ではどうしようもない。むろん経営側にも言えることだが。
 会社のためにそんなに働きたくない、という人は自分を粗末にするも同然だ。これは会社のためではなく自分のためなのだ。現代社会は保身に懸命だ、そういう時勢だからこそなのである。
 このサイトでは木材を利用して思考の一例を紹介しているが、どのような分野にも共通していると断言していい。
 わたしたちが工作をするのは、本職になるためではない。あくまでも工作の過程を通じて、ものの見方や考え方、その他多くの未知の世界を体験しようとするものだ。けれども、結果的に本職になってしまうのならそれはそれでいい。

 ところで、自作といえば安上がりになると思う人がいる。かつては自作した方が安い時代があったかもしれない。けれども現代ではかえって高くなる場合がある。したがって好みの市販品がないからではなく、工作の意義や楽しさ、そして使う喜びがなければ、費用と時間、それに労力が意味をなさなくなってしまう。
 工作が創造的鍛練に適していると言っても、実用を無視して、形のおもしろさを追求するだけでは不満もあると思う。作例では実用性を考慮しているが、無理やりそうした懸念もあり、二つの目的を達成するには相いれないものがある。しかし短絡的に結論することなく、今後も探究してゆきたいと思う。またどのみち工作するなら実用品を作りたいという希望もある。ご家族からの要望もあるだろう。
 実用品は目的がはっきりしているから機能が最優先される。すなわち「役立つ、使いやすい、丈夫で長もち、そして作りやすく、材料を無駄なく経済的に活かす」ことだ。その上で見栄えも考慮される。
 基本的にはこうした要点をふまえて工作するが、わたしたちは売り物を作るわけではない。したがってあまりこだわる必要もないと思う。それよりも思う存分意思のおもむくままに工作を楽しんだほうがよいと思う。なぜなら、たびたび述べているように、こうした作業の過程で発見することがたくさんあるからだ。また、すべてが自由に意思決定できる世界でもある。
 現代人は精神的に安定しない向きもあるようだ。こういうときは、どうでもよいことに関心を向けるきらいがある。また一つのことに集中できないのも、こうした精神の現れだと思う。工作を実行するのに「こんなことをしていて、いいのだろうか」といった不安もある。けれども成果がみえてくると、こうした不安はなくなる。なにごとも始めからうまくはゆかない。だからこそ成果による喜びも大きいのだ。工作は成果を具体的な形で見ることができるから、ぜひ試みたい。
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