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 長年工作を楽しんでいると端材がたくさんでる。端材とは材料取りをしたときに切り落した木材だ。これらは一般的には廃棄してしまうが、端切れで継ぎ当てしたり、パッチワークで作品もできるように、また残り物で料理をするように、思考作でも有効な材料になる。
 創造の第一歩はこうした積み重ねだと思う。まるで子供の遊びのようだが、思考に子供や大人の差はない。
 創造という概念には新入社員(子供)もベテラン(大人)もない。むしろ新入社員の方が創造性活発かもしれない。経験の豊かさも重要だが、経験が創造の邪魔をすることもある。そうした意味で素直な感性を持ちたい。
 左の写真は端材をそのまま積み上げたのだが、これだけでもおもしろい形ができることがある。いかがでしょうか、端材なくしてこれはできない。そして、さらにここから発展させる原動力になる。
 電気スタンドはソケットを任意の位置に固定出来ればよい。こうした考えから、端材をそれなりに大小四角く切って積み上げた。最後のソケット受けは、向きに応じて水平なり垂直にすればよい。幸い半分コーティングした電球が市販されているので、邪魔なシェードを付けなくてすむ。
 この電球は横に付けるので、ソケット受けは板面が前になる。すると顔のように見えたので、左右に腕かなにか分からないような部分を、バランスを取る意味で付けてみた。
 こうしてみると、なかなかよい形に見えてきた。しかるに電気スタンドは取り止めて、今しばらく様子を見ることにした。
 1枚の板で人形を想定して切ってみた。腕は向きや位置を変えることによって表情が変化する。こうした試みを繰り返して、最良と思われる形を探した。
 探すという言い方は、いいかげんに思われるかもしれないが、ここではそれでいいでしょう。芸術家も科学者も、案外そんなところがあるかもしれない。
 いくつか工作すると半端な角材や板材がたくさん出る。これらを無駄にするのではなく利用して工作を楽しむことができる。家族やペットを見立てて作るのもおもしろい。また小物類とともに置き方、置く場所によって様々な演出ができる。伝言をピンナップすることもできるし、そうした意味でポーズを考えるのもアイデア次第で楽しい。
ノコギリ彫刻
 太めの角材を使って、ノコギリで彫刻をすることができる。ここでは予想できなかった形や多彩な木目が楽しめ、意外性に驚きの連続だ。
〔1〕はじめに大まかな形を描く。
〔2・3・4・5〕両歯ノコ(木目に対してタテ切り・ヨコ切り)を使いわけて切ってゆく。
〔6〕切るにつれ、途中で描いた形がなくなるから、その都度形を予測しながら描く。
〔7・8〕小刀で修整し、サンドペーパーをかけるとより完成度が高くなる。
 長ければ切る。短ければ継ぎ足す。薄ければ張り合せて厚くする。このように考えるのが遊びの思考作だ。だから材料で困ることはない。困ったら解決方法を探るのだ。不便は人を利口にするように、悩みは思考を促進してくれる。
 花器を作ろうと考えたが太い材料がない。そこで薄い板を張り合わせてみた。すると木目がおもしろく、くり抜く手間も省けた。外側はノコギリ彫刻のように多面体にした。
 下右も同じ方法で作った。カラー4点はバリエーション。
 糸鋸を使うと曲線状の形を切抜くことができる。
 レンコンの断面で鍋敷を作ろうと考えて切抜いてみた。ところが、どうも形が不自然に思えた。そこでレンコンを買ってきて見るとまるで違う。必ずしも本物と同じ形にする必要はないが、明らかに形がよくないのである。ここで自然が造り出す形の素晴らしさと、記憶の曖昧さを認識した。
 ペンスタンドは適度な細長い容器であれば機能する。形は単純な箱か筒状なので外見上の変化はさほどない。そうしたことから既成品は材質で変化をつけることが多い。
 商品は利潤を上げなければならないから大量生産が前提だ。したがって価格に応じて製作工程と材質が決められる。
 ここで作ったペンスタンドは商品ではないから、こうした条件は無視できる。また機能だけを求めるなら、空箱でも間に合うし買ったほうが安い。そうではなくペンスタンドをテーマにして思考を試みた。思考とその過程が目的だ、結果として実用になったというわけだ。
 作例6点は、ごく一般的に均一の材料で工作した。とりあえず四角い箱を作り、さらに手を加えて形の変化を求めた。ちょっとした工夫で可能性が広がるから、今さら鉛筆立てなんて、と思うこともない。
 1は側面をカンナで削り落とすことから始めた。肉厚なので、曲面にしたら筒状にすることが出来た。上端はほぼ円形に近いが、すそを広げたので底面は角丸の四角になっている。
 2と3は同じで、図のように各側面を上端のほぼ対角線で、真上から削り落とした。よって、内側、外側共に四角であるが、平行を保たず変化のある形になった。
 4は4つの角をカンナで削り落とした。肉厚であればこれ以上削ることも出来るが、強度の面からするとこのくらいが限度と思う。これで直角部分がなくなり、八角形になった。
 5と6は上端を斜にカットして形を変えた。上端は必ずしも水平である必要はない。むしろこのほうが形の変化だけではなく、出し入れしやすい場合がある。

 収納とインテリア効果を兼ねた鉛筆立て
 現代社会では個性や創造性の重要さを云々するも、それはごく一部の職業人の世界かのごとく認識されている感がある。これは間違いで職種とは関係なく、すべての人が人生を心豊かに、有意義に過ごすためには絶大な意味をもっている。
 人は誰でも考えたり工夫したり、モノを生みだす習性があるといわれる。そこに自己の存在感があり、喜びにつながるのだ。にもかかわらず、そうした本来の習性を放棄しているように思われてならない。これには社会情勢や教育システムも関係しているのだろう。 現代社会は疲れる。疲れ方は陰湿とでもいうのだろうか、爽やかさがない。そんなことから、自分の時間を有効に生かすことさえ無気力になりがちだ。
 また教育といえば知識を詰め込むだけで、本人の意思など抹殺しているようだ。個性を尊重して伸ばすなどといっても、実体はまったく的はずれなことをしているようだ。
 
 かつては街でも村でも子どもの遊びは様々な創意工夫が込められ、対人関係も含めて社会の縮図のようであった。これらは生活そのものが自然に教えてくれたのだ。純粋な子供時代にこうした思考技術を自然に学ぶことは、その後の人生に大きく影響していることは確かだ。
 毬つき、お手玉、あやとり、縄飛び、かるた、ケン玉、竹馬、ベーゴマなどなど、かつての子供の遊びには情緒があった。女の子らしさ、男の子らしさはいうにおよばず、これほど情操的な遊びは現代では見られない。そして遊びはすべて体を使い、知恵と技術を要求した。しかも、これらは苦労して学ぶのではなく、遊びながら自然に身についてくれたのだ。
 ベーゴマ遊びではいかにして強くなるか、子供自身が考え工夫するのだが、これは遊びが創意工夫をもたらしてくれるのだ。
 ベーゴマの背丈を低くするには上面を削るが、これとて道具はない。コンクリートをヤスリ代わりにして擦るのだ。夢中で摩擦運動を繰り返すと指先や腕が痛くなる。けれども自然に腕が強くなり、これはベーゴマを回す体力増強にも影響するから都合がいい。
 どのようにしたら効率よく削れるか、そんなことも考える。指先で押さえて擦るよりも、竹の棒を利用することも覚えた。竹は空洞だから、逆さにしたベーゴマの先端を押さえるのに具合がいい。こうするとより力が加わって効率がよい。竹がなければ棒の先端をV字型にナイフで削る。棒が長ければ、先端で押さえたベーゴマを外さないように加減して走ることも覚える。これはものすごく効率がよいが、うっかりすると片寄った削り方をしてしまう。そうなると回転運動に影響し、短時間で勢いがなくなってしまう。そのために、削り具合を確認しながら作業しなければならないことを知る。
 低くすれば相手の側面を打つことができるが、削ってしまうので、それだけ軽くなる。すると、逆にはじき出されてしまうことがある。そこで上面全体ではなく、円周の肩を落とすことも覚える。また円形よりも多角形のほうが、相手を打ち出す力が強いことを知る。さらにベーゴマの接地部が鋭いと布地に食い込み、回転の勢いが持続しない。よって適度な丸みをつけるのだ。
 他のベーゴマと識別するための工夫も必要だ。はじめはクレヨンやチョークを塗ったのだが蝋を溶かして流し込む方法も覚えた。鉛なら重さが加わることも知る。危険はともなうが、鉛を溶かすことも覚える。色を着けると、回転したときの美しさも知る。
 鉛といえば、昨今廃物となったガラクタに類するものが身の周りに見当たらない。ガラクタにはさまざまな夢があり、それらを利用して創意工夫をするのに最適な材料なのに。かつては壊れたオモチャや鉛管の切れ端など、鉛を得るにはさほど苦労しなくてもできたのだ。このように、無限の可能性を秘めたガラクタを排除したのは、合理的で美しい?生活環境の追求が原因なのだろうか。
 加工するほどもとの原形から離れ、個性的でいかにも強そうで相手には不気味な存在になる。これは勝負のとき心理的に影響する。
 こうした工夫や加工は、自分だけではなく誰もがしている。互いに相手の工夫を見て、真似したり独自に改良するのだ。この繰り返しが技術や性能の進歩向上につながるのだ。
 目的はベーゴマ遊びに強くなることだが、この遊びには創意工夫が満たされ、夢中になる。じつに涙ぐましい努力だ。

 こうした遊びで得るものは、強くなるための創意工夫と工作技術。加工やベーゴマを回すときの手加減。識別工作するのに美意識が働く。また遊び仲間でも悪事を働く者がいる。善悪を見極める能力や、公平なルールづくりをしようという人間関係を学ぶ。ほめられたことではないが、親や先生に隠れて遊ぶ要領も覚える。これらすべてが、自分の意思で実行しなければならないから、自主性が養われる。
 すべてが便利になった今日では、電動グラインダーで削れば、早くて正確、さらに体力もいらないだろう。まことに効率よく合理的だが、それゆえに、目的達成の過程で得る多くの体験を失うのだ。それらは体を使って加工する、物理的な原理や要領、成し遂げた喜びなどだ。機械化やオートメ化は効率はよいが、単調な作業は熱意を奪う。
 ベーゴマのように、多くの要素を含んだ遊びがあるだろうか。ベーゴマにかぎらず、かつての遊びは大なり小なりこうした要素を含んでいた。これらは人間として、なすべきことが総合的にバランスよく統合されていたのだ。現代の遊びや教育は、人間本来のあるべき姿から片寄っている。仕事もしかりだ。細分化された組織の一部に当てはめられ、それが仕事をつまらなくし、さらに人間関係などという、どうでもいいことに気を使うといった事態が生まれる。人間関係はいつの時代にもあるが、それらがストレスとなって様々な現象をひき起こすのだ。
 栄養についてはバランスがどうのこうのと言うが、仕事や精神面でのバランスも重要だ。けれども現代の企業社会における仕事ではやむを得ない面が多々ある。そうした環境の中で自己防衛の意味で、真に打ち込める有意義な遊びを実現したいものだ。気分転換というのはある意味では妥協だ。人は総合的に均衡をとらないと不健康になるだろう。
 子どもというのは〈ガキ〉なんだ。〈ガキ〉というのは一人前でないのだ。だから早く一人前になるために、大人の手伝いをしたのだ。学校の勉強だけではなく、社会や家庭生活でたくさんの実地勉強をしたのだ。それは、変化のある充実した忙しい日々の連続であった。勉強とは知識を詰め込むだけではなかったのだ。
 現代の子供もたいへんに忙しいようだ。小学生に「今一番したいことはなんですか」と聞くと、回答の一位は「のんびりしたい」のだそうだ。その忙しさはアンバランスな忙しさだ。これでは片寄った人間が形成されてしまう。事実、そうした問題がたくさん発生している。これは異常な事態と言っても過言ではない。
 さらに言うなら、一人前でない〈ガキ〉になんでもしてあげる親がいけないのだ。子供のことを思っているようでいて、じつは子供の自主性を奪っているのだ。こうして子供は他力本願になってゆく。
 こうなると、個性だの創造性どころではない。自ら実行する習慣がないから、事が起きても無関心になる。あるいは他人を頼りにする。修理すれば使えるものでも、そんなことはしない。最初からそういう頭が働かないのだ。メーカーを批判したり、だれに頼めば直してくれるか、めんどうだから新しいものを買ってしまおう。と考えてしまう。こうした習性は成人しても変わることがない。不平不満だけは人一倍だが。
 こうした子供社会のゆがみは大人社会の鏡なのだ。〈ガキ〉はいつの時代でも大人の言動や態度を見て育つ。だから大人が子供時代のすぐれた問題解決能力を取り戻す必要がある。お金では解決できない、自分の頭と手をフルに使った遊びを復権させようではないか。遊びの種類やものが変容しても、創意工夫する《こころ》を変質させてはならないのだ。
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