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私はどちらかといえば理屈よりも手が先にでる方だ。なぜなら、理屈で考えているよりも実行に移したほうが早いし、いいアイディアも発見できるからである。つまり制作過程の段階で探るといった方法だ。
これは設計図を描いてから製作するといった計画的な方法ではなく、一見無計画のようだが、この方が予期せぬまったく新しい作品を生みだすことができる。
これは頭がよくないからだと思うが一概にそうも言えないようだ。そこで関連した話をご紹介する。
二十代のころ、ある美術団体が名古屋の百貨店で展覧会を催すとき、そのディスプレイの施工で画壇の先生方数人と出張した。旅館で夕食後の雑談のなかで、私は長年の疑問をある先生にこう聞いてみた。
「絵を描くとき、感動とか葛藤とか、よくわからないのですが、かなり複雑な心境で描かれるような話を読んだり聞いたりしますが、それはどのようなことでしょうか」
この質問に先生方がいっせいに注目されたのにはびっくりした。無知を軽蔑されそうでためらったのだが、勇気をもって質問したので笑われるかと思った。すると答えてくれるどころか。
「君が写真を撮るときはどうかね」
逆に質問されてしまった。出発前に写真が上手であるとお世辞がてら紹介されていたからだ。若かったせいか、なにか気のきいたことのひとつも言わねばと思ったが、正直に答えた。
「ぼくは依頼されて撮ることが多いので、依頼主の目的を果たすように心がけています」
「それで?」
またまたぼくが答えなければならない。これはエライことになった。とんでもないことを聞いてしまったと後悔した。逃げ場がない。絶体絶命だ。
「対象をよく見て内容を理解し、さまざまな要素を満たす最適な視点を選びます。さらに 時間の余裕があれば自分なりに多少の主観を交えて撮ります。たとえば石油精製プラントの場合でしたら、広角レンズでパイプラインを画面前方に大きくとらえて遠近感を強 調した構図にしたり。夕方の斜光線で異常な物体の森といった感じとか。あるいは夜景を多重露光とフイルター効果で抽象絵画のように撮ったりします。
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でも採用されるのはいつも前者で、自分なりに撮ったのはほとんど採用されません。なぜなら、目的を果たすどころか反体制的というか、批判的な写真に仕上がる場合もあるからです。ですから、それは遊びの写真と呼ぶようになって、最近は見せないようになりました。でもやっぱり撮りたくなるんです」
数日前、千葉県の工業団地で石油精製プラントを撮影した状況を、一言一言確かめながらこのように言った。すると、
「絵だってたいしてかわりないよ。そりゃいろいろ思考錯誤するけど、感動してたら描けやしない。描くんだよ、描くしかないんだよ」
描くしかないといっても、むやみに描くのではないことくらいはわかっている。それにしてもいささか驚いた。なにか神秘とでもいうべき言葉を期待していたのだから。
でも先生方のいう通りなんだ。描くことによって自分の世界ができてくるんだ。そしてこれは絵の世界にかぎらないのだ。どのような世界にも《描く》があると思う。まさに修練ということだ。けれどもそれは容易に言葉で表現できない精神世界なのだろう。
修行とは大量の知識を得ることではなく、感性豊かな謙虚で正しい人格を形成することだと思う。それには多くの経験を積み重ねる以外に方法はないようだ。
私もそうだが、おしなべて人は仕事ができるようになると生意気になる。そしてこれが進歩を妨げる場合があるのだ。修業のひとつは、この生意気さを取り除くことかもしれない。云々と生意気なことを言っているが。
私たちは学校で、なにごとも計画的にとか、順序を考えてといった具合に教育された。むろんこれはこれでいいのだが、すべてがこうだと思考の範囲が狭くなると思う。
学校は基本的に読み書きや計算、知識を教えるところなので、個人の好奇心や思考は抹殺されがちだ。カリキュラムをこなすことに追われて、それどころではないのだ。だから、卒業後に自ら学んだり研究することが重要なのだ。生涯学習云々はこうした事情を示唆している。テーマはなんであれ創造することはとても楽しいことだ。もちろん仕事にも有益なことは間違いない。
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