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 人はだれでも、考えたり工夫したり、探究心や作り出す能力を持っている。これが発揮されると、仕事も遊びも勉強も大きな喜びとなる。
 こうした能力を生かすには、あるいは引き出すには、制約が多い仕事よりも、興味が持てる趣味や遊びで、思考と手によって作り出す作業がよいと思う。またこうした作業は、続けることによって能力は増長されてくる。
 趣味の工作は、個人の能力を生かすにも、試すにも、格好な作業といえる。これは意のままに進めることが出来るからである。依頼された仕事のように費用がかかりすぎるとか、納期が遅いとか、あるいは形態が気に入らぬといった苦情がない。結果はすべて自己の努力や能力にかかってくるから非常にきびしい面があり、それだけにやりがいがある。奥が深いともいえる。
 けれども趣味の工作で、初めから七面倒な理屈は無用だろう。まず楽しみながら工作すればいい。回を重ねれば自然と好結果につながる。
 ここ十数年、工作で興味あるのは形である。面白い形を作りたいがゆえに工作する。楽しくありたいと思うのは皆同じ。自ら手づくりするのだから機能だけではなく、その形を考えたい。これは工作が楽しいだけでなく、完成後使う楽しみもある。
 こうした理由で、機能よりも形を優先することがある。極言すれば、着手したときになにが出来るか分からない。形の面白さだけで組み上げてゆく。材料の加工や接合が間に入るけれども、それは惰性的に行われ、頭脳の休憩にちょうどよく、あるいは先のことを考えている。このようにいうと大変難しいことのように感じるかもしれない。たしかに単純ではない。しかしこうした作業こそ自らの感性をフルに生かすことが出来る。また、作業を通じて学ぶことがたくさんある。
 設計図通りに工作するのは、結果が分かっていることを加工技術によって形にするだけである。計算された仕事みたいだ。もちろんこうした作業で得るものや加工の楽しさなど、皆無とはいわない。けれども限界がある。それよりもっと自分の意思が反映した作業の方が楽しくないか。どんな作業も興味があれば苦にならない。むしろ楽しい。
 こうした工作に意外と役立つのが実は端材であった。単に残り物を利用するだけなら、端切れで小物など作ったり、料理をすることと同じである。けれどもこの端材、無限に形を提供してくれる。また、端材だけで工作物全体の形が出来てしまうこともある。
 かつて端材がたくさんたまったとき、捨てるのはもったいないし、などと思いつつ整理をしていると、なかなか面白い形のものがある。いくつかを組み合わせるとまったく予想外の形が出来る。複数の端材を上下左右逆にしたり裏返したり、位置を変えたり、立体的に積み上げたり、もうキリがない。自分で考えるより形が変化するので、想像力の貧困さを痛感する。
 端材の価値はこれだけではない。たとえばまちまちの端材だけで工作物を作ることが出来る。この方が均一の材料で作るより面白いといった始末である。材料代がタダになることはいうまでもない。
 この作業を通じて思うことは、形を作るだけでなく、視点を変えてみるとか、さまざまな形態による感情、受け止め方など、見方や考え方を教えてくれる。これが机上の知識でなく、実践で得られるからより身につくし、応用することが出来る。知識だけでは理解しているようでも、さまざまな局面に対応することが難しい。
 こうした工作に、気がついたら夢中になっている。集中するというより、させられてしまう。知らず知らずのうちに頭や手を使われてしまう。使うほどよくなるというし、ヘル心配がない。こんなよいことづくめが、楽しみながら出来るのだ。楽しさは普通その場限りだが、のちにちまで、役立つ作品につながるのである。これが『遊びの木工作』たる由縁である。













 工作物の使用目的が決まれば、まず第一に考えることは機能である。必要に応じて工作するのだから当然といえる。これらの要点は生活に役立ち、使いやすく、丈夫で長持ちし、そして作りやすく、材料を経済的に有効に生かすことといえよう。これらをふまえて工作すれば形は自然に出来上がる。その形が美しければ、機能美ということになる。
 これはこれでよいとして、本書では機能と共に形を重視してみたいと思う。工作物は生活を共にするから、機能はもちろん美を求めるのは当然である。美が大げさなら、面白さや楽しさでもいい。これらは見る者に感情をもたらし、形によっては豊かな気分にさせてくれる。
 なぜ形にこだわるのか。機能すればよいという考え方もあるが、たとえは被服の機能は身の安全を守ることにあっても、形や色彩を重視している。これは楽しさや豊かさが得られるからである。髪型をあれこれ云々するのも同じこと。食物の機能は栄養だと思うが、味覚を無視することが出来ないなど、例を挙げればキリがない。現代は、機能に加えて付加価値が求められている。工作物もこうした考え方に共通する。
 さらに目的は結果だけでなく、作業そのものにある。実際に道具や材料を使って工作すると、そのつど対応する思考力と技術が自然と身につく。これは具体的に形を形成してゆくから非常に分かりやすく、場合によってはまったく新しい体験であり、未知の世界へ分け入る格好の作業になる。
 それでは形を作るには、どのような方法があるのだろうか。これは感覚の問題であるから、理屈ではっきりと割り切ることは出来ないが、一例として参考にしていただきたい。
 工作するたびに、端材、つまり切り落とした材料がたくさん出る。実はこの端材に面白い形がある。自分で考えた形をノコで切っていると、それよりも切り落とした方が面白い形になっていることがある。気を引いた端材を手に取って、いろいろ組み合わせてみると、とても楽しい。積木遊びをするようだ。
 このように、端材そのものに予想外の形があるから、そのまま利用したり、一部に手を加えたり、あるいはヒントにすることが出来る。端材が提供してくれるものは無限にあるからありがたい。もちろん、自身の選択眼によることはいうまでもない。
 これから工作を始めるのに、端材があるわけない。そのときは、適当な材料を任意に分割してみる。5個でも7個でも、あるいは10個でもよい。糸ノコで曲線部分を作ればなおよい。ただし、初めからあまり数が多いと、構成にとまどってしまうこともある。
 端材から形を得るのがなぜ効果的か。たとえばメモは用がすめば捨ててしまうけれども、もしメモが何枚か何十枚かあれば、雑多なものであっても組み合わせ方によって、発想の起点や1つの世界を構築出来るのではないか。これは、自ら考え出すよりも面白い結果が生まれるような気がする。個人の考えから生み出されるものは、たとえ想像であっても当人の見識や体験によっている。自ずと範囲が限られてしまう。
 同じようにブレーンストーミングにおける各人の発言は、1枚のメモであり端材でもある。
 このょうに端材の中から選択し構成してゆく方法は、無計画のように思えるけれども、想像しえないまったく新しい形を発見することが出来る。
 本やレコードなど自分の好みで選ぶと、どうしても片寄りが出るが、他人から贈られると、素晴らしいものを発見出来ることがある。
 旅の場合は、目的地を決めて日程から時間まで厳密な行動計画を立てれば、効率よく目的を果たすことが出来る。しかしそれ以上の期待はあまり出来ない。この場合の旅は、ただ目的を果たせばよいのだが……。無計画な旅は無茶に思えるけれども、予期せぬ発見や体験をすることが出来る。しかし、こうした旅で成果を得るためには、好奇心や見識眼が大きくものをいう。これがなければ、逆効果でなんにもならない。端材で構成してゆく場合もまったく同じといっていい。
 端材だけでなく、身の回りや自然界にも面白い形がたくさんある。それらの一部を応用し、組み合わせることによって、新しい形を作ることができる。今まで当たり前に見えていたものが、形を模索しているうちに、違った印象に見受けられることがある。また、こうした目でいろいろなものを見ると、詮索するとでもいうか、ものの見方が変わってくる。さらにさまざまな見方が出来るようになる。ものは見方によって、見え方が変わる。これは、時間や精神的なものから物理的な視点に変えることでもある。
 次に、既製品からヒントを得たり改良する方法がある。といっても、実際に既製品を壊して作り変えることではない。不満なところをどのようにしたらよいか、考え、工夫し、新たに作ることである。これは無から考え出すのではなく、すでに形が出来ているものから。いわば部分修正なので、比較的取り付きやすい。
 さらに全面的に改良するといった方向に展開することも出来る。この場合、既製品は新たな形を作るためのタタキ材料になる。既製品とは、市販されているものに限らず、自ら作り出した作品にも当てはまる。
 これまでは他の要素から形を得ていたが、そうではなく、すべて自分の思考によって形を作ることも可能だ。想像力に富めば、より楽しい作業になるだろう。
 思考するときは、既成の概念やこだわりをなくし、純粋になれれば申し分ない。また、自分の世界が狭くならないように、日ごろから視野を広くしたい。
 端材をはじめ、さまざまな要素から得られた形が工作物全体の形を成していれば問題ないが、一部分の場合は全体の形を構成することになる。その一部分が全体の核を成していれば、ここでいい切ることは出来ないが、一般的には枝葉を付けることになる。
 形を作るとき、発想の各要因は総合され、展開し、形成されてゆく。またよい形が出来るなら、機能を犠牲にしてもよいと思う。それは創作品としてより素晴らしいものになるからだ。
 こうした作業はどのようにすればよいか、という明快な答えはない。10の作品があれば10の答えがあるし、100の作品があればこれまた同じである。物事を言葉でいい表わすことが出来ても、視覚による感情は人それぞれ皆違うし、気分の問題でもあるから、感覚で受け止めればよいと思う。
 共通していえることがあるとすれば、前に述べたように面白いとか、楽しいとか、見る人に心地よい感情をもたらすような形にしたい。それと形に変化が欲しい。工作物は、とかく左右対称形になりがちである。これは安定感があるけれども、それゆえに変化がなく、構えた感じもある。しかし構えたことが、逆によい場合もあるから、決めつけることは出来ない。
 思考するには集中することも重要だが、環境を変えるとか適度に体を使うのも効果的である。散歩がてらといったことがよく言われるが、その時々でさまざまだ。
 三十年ほど前、内山真理恵さんという青山学院の学生がアルバイトで私の事務所に来ていた。三年生の半ばころだったと思うが、四年生になると毎日来られるという。
 その当時でもアルバイトや遊びやらで、あまり学校に行かない学生がたくさんいたので、そこを質した。すると「単位はほとんど取得したので、水曜日に一時限だけ行けばいいんです。昼休みの時間をそれにあてていいでしょうか」という。私は大雑把なほうだし、感心な子だと思ったので「一時間が二時間でもいいから、ゆっくり行ってきなさい」と言った。けれども彼女は走って往復し、食事もパンなどを買ってきて五分か十分ですませていた。仕事中は気の毒なくらい神経を使う生真面目な学生であった。
 日常はあれこれせわしないのだが、あるときゆっくりと小刀で鉛筆を削っていた。五本か六本まとめて削るので、かなり時間がかかると見えたのだ。なかば同情ぎみに「あのぉ、私が高校のときに使った鉛筆削機があるので、あした持ってきましょうか」と言う。
 あぁ、この人は鉛筆削機も買えずに、こうして時間をかけて自分で削っているのかな。こう思われたに違いない。そこで私は「いや、削機を買えないわけじゃないけど、あれは嫌いだし、それよりもこれまで書いてきた内容を検討しながら、次にどう書くかを考えたり、また休息の意味もあって、こうしてゆっくり削っているんだよ」
 削りながらこういって彼女に顔を向けると、けげんそうな表情で私を見つめていた。まったく意味がわからなかったのだ。
 私にとって小刀で鉛筆を削る時間というのは、それが書きはじめであろうと、途中でも、あるいは書き終わった時点でも、それぞれに充実した時間なのだ。なぜなら緩やかに思考できるからだ。だから急いで削るようなことはしないし、もっと削る鉛筆がないかと探すくらいだ。
 卒業しても就職先がないので、見つかるまでアルバイトを続けたいと言う。それから半年くらい後に広告代理店に就職した。そして半年くらい後にお土産を持って見えた。
 彼女は事務所で勉強したことが職場でとても役立っていることを、さまざまな具体例で報告してくれた。広告代理店なので、企画・デザイン・写真・文案などなど、みんなが私に意見を聞きにくると笑っていた。それは適格な意見を述べることができたからだ。
 そして最後に鉛筆削りのこと「なんとなくわかるようになりました」と言う。なぜか印象にあったようだ。私はなにも言わずに笑って答えた。彼女も照れ臭そうに笑っていた。
 実行するとき目的は一つである。けれども思考は集中したからといって効果的とは限らない。関係ないことをしているときに浮かんだり、思いつくことがよくある。夢に見ることもある。
 そうした意味で、枕元にメモを用意するのもいい。目が覚めるとすっかり忘れていることがあるからだ。メモは頭脳の記憶装置を補ってくれるから、常に用意しておくといい。
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