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住宅環境
 戦後を省みるに、西洋(主としてアメリカ)文化・文明の素晴らしさ珍しさにこころを奪われ、伝統的な日本文化を疎外してきた。
 多くの例をあげるいとまはないが、たとえばグレーのスチール机。当初は「これぞ機能美の極致。一切の無駄がなく合理的」絶賛につぐ絶賛で、スチール家具のオフィスは夢のようであった。ところが数年後「味もそっけもなく、汚れた姿は見る影もない」のに気づいたのだ。思うにスチール家具は、人のこころをして現代社会を象徴しているかのようだ。
 合理性や効率を追求すれば、目的達成は早いかもしれない。しかし、その代償も大きいのだ。結果として、経済成長を成し遂げたにもかかわらず、こころの豊かさを失ってしまった。
 しかし、当時の社会情勢からすれば無理もなかった。食うや食わずの時代から、働けば働くほどに希望の灯が見えた。また西洋文化に餓えていた時代でもあった。

 現在もそうだが、こうした時代背景の中で育つ子どもたちは、心の育成がおろそかにされる。さらに大人にまで蔓延する。環境や社会情勢は人の心まで変えてしまうのだ。
 環境の悪化はいうまでもないが、単に遊び場としての原っぱや公園だけでなく、住宅にまで及んでいる。住宅が単に狭いというのではなく、その構造や材質までが子どもの好奇心や創造力に影響している。
 子どもにとって、遊びとは時間を無駄に過ごすのではなく、創意や工夫、対人関係、また体力増強をはかるのにも寄与しているのだ。
 家庭では住居空間がこれを駄目にしている。数千万もする住宅がコンクリートで仕切った空間で、なんの感性が生まれよう。あの無機質な住居空間は非情そのものだ。家具や調度品で補うとしてもそれはそれ、あの無愛想な空間では、こころを育む情操的環境とはいえない。
 今さらこんなことをいっても仕方がない。けれども反省する必要はあると思う。なぜなら、合理的な住居や考え方のみが最良ではないからだ。

 伝統的な日本の家屋は情操的環境として優れていた。寸法は身体を基準にしていたし、材料は自然の産物から加工した、木、紙、草、布などだ。こうした材料でつくられた家は「肌に合う」というようにまったく違和感がなく、心地好く溶けこむ。安らぐとはこれを言う。
 子どもの遊びでは影絵がある。障子に映した影と、その動きで一つの世界が浮かぶ。影絵芝居を演ずるに、どれほどの創意工夫がなされるか、無意識にも遊びが知能を刺激してくれる。
 障子のない住居空間でも、壁と電気スタンドか懐中電灯を使えば影は映せる。しかし根本的に違うのは、情緒がないことである。さらに、あるものを利用するのに対し、わざわざ用意しなければならないということだ。
 昨今なにかにつけて、すべて用意しなければならないのはどうしたことだろう。利用の仕方が下手になったのか。そうではなく利用できるモノが少ないのだ。
 畳敷きの部屋はむろん、廊下でさえも用途に応じて変身する。襖や障子の開閉で用途はさらに拡大する。こうした利用の仕方は現代の住宅では不可能だ。
それぞれが個室でいいかもしれないが、個々の部屋を狭くしていることでもある。家族の対話が少ない原因でもある。
 絨毯の上でもカルタやオハジキはできる。けれども行為があるだけで、そこには目的あるのみで美は存在しない。入浴の目的は汚れを落とすことにあるが、疲れをいやしたり、心地好い気分を味わうことができ、それが目的の場合だってあるのだ。
 「目的を果たせばいい」というのが現代の考え方だ。むろんそれでいい場合もあるだろう。しかしすべてがそうした考え方だと、その精神構造には合理的な考えしか存在しなくなる。
 職場では効率を優先するから、合理性を追求する。しかし度が過ぎると逆効果になる。人間には感情があり、ロボットではないからだ。
 情緒や風情などと言うと、考え方が古いという向きがある。そうではなく、人情味ある心の育成にどれほど寄与しているか、それがないから人間が渇いてしまうのではないか。唱歌やお話は情緒や風情を表現していたではないか。心の古里まで遠くなった。
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